ランドルフ・コルデコットは、19世紀末を代表するウォルター・クレイン、ケイト・グリーナウェイに並ぶ絵本の挿絵画家でありながら、残念ですが日本ではそれほどの知名度がないようです。
少し詳しく彼の紹介をしましょう。
“ The Farmer's Boy ” (Geo. Routledge & Sons, London,1881年)
コルデコットは 1846年3月22日(グリーナウェイの誕生日の5日後)にイギリスのチェスター・ブリッジストリート150番地で生まれ、1886年2月12日に旅行先のフロリダで急逝しました。
コルデコットはもとから心臓があまり丈夫ではなかったため、冬になると寒い土地での生活を避け、温暖な土地への旅行をしたようです。
しかし、1886年は例年になく気温が低く、ニューヨークから東海岸を経由しフロリダへ向かった長旅の疲れもあり、彼は突如体調を崩し世を去ります。
彼は13人兄弟中の、父ジョンと最初の妻であるメアリー・ダイナとの間にできた上から3番目の子でした。
1848年、彼ら一家はチェスター郊外のリッチモンドに移り、彼はキングズ・スクールへ通い、そこでの5年間で動物や風景の絵を熱心に描きました。
会計士であり実業家でもあった彼の父(John・Caldecott)は、ランドルフを銀行家にすることを望んでおり、15歳で学校を卒業した彼は父の意向に沿う形でエルズミーア銀行ウィットチャーチ支店に勤めました。
彼は銀行のある町から少し離れた村に下宿屋を借りて暮らし、そのあたりの田園風景や乗馬の風景、狩猟の合間に描いた動物のスケッチを数多く残しました。
ランドルフの絵本に動物がよく取り上げられるのはこの時の生活がもとになっているのかもしれません。
6年後、彼はマンチェスターのソルフォード銀行本店に移動することになります。
彼はそこでマンチェスター・アート・スクールの夜間部に通い、絵画技法の基礎を学びます。
美術学校に通う以前から、彼のスケッチは非常に緻密で正確でした。
特にチェスターのクィーンズ・レイルウェイ・ホテル火災のスケッチは、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載され評判となりました。
しかしながら、このように新聞にとりあげられて掲載されたこともありましたが、彼の絵は根本的に家族への手紙に描き添えられた挿絵や自分の趣味の範囲を超える物ではありませんでした。
彼にとって本格的に絵の技法を学ぶことは画力を飛躍的に向上させ、結果として地方誌や地元出版社でイラストを任されるようになり、画家としての第一歩を踏み出すことに結びつきました。
1872年、彼は自分の絵に自信を見出し、挿絵を描くことで生活することに決めロンドンへ移住することにしました。
ランドルフ、26歳の時のことです。
彼はブルームズベリーの中心、大英博物館近くのグレイト・ラッセル・ストリートの下宿に居を置きました。
このロンドンでの7年間で、ジョン・エバレット・ミレー、フレデリック・レイトン、ガブリエル・ロセッティらと友人になり、交友を広めました。
フレデリックの推奨で、ランドルフはケンジントンにあるレイトン・ハウスの4つの部屋のデザインを任されることになりました。
ウォルター・クレインもこの時、同じ部屋のデザインを担当しています。
1877年、グリーナウェイを発掘したエドモンド・エヴァンズ(Edmund Evans)が、クリスマスに出版する2冊の絵本の挿絵の話をコルデコットに持ちかけました。
彼はその仕事を快く引く受け、1878年に“ The House that Jack Built”と“ The Diverting History of John Gilpin”の2冊が出版されます。
以降、コルデコットが死亡するまで計16冊の絵本をクリスマスに出版することになります。
“ John Gilpin ”
(George Routledge & Sons; Engraved & Printed By Edmund Evans, London,1879年)
1879年、ケンジントン近郊に転居の後、マリアン・ブラインドと婚約し、1880年に二人は結婚しましたが子供はできませんでした。
この頃にはコルデコットの絵本の挿絵画家としての人気は不動のものとなっており、1884年にまで出版された彼の本の総発行部数は86万7000部を超えました。
“ Picture BooK ” (Frederick Warnk,co.Ltd,1917年)
仕事の都合でちょっと間をあけますが、コルデコットの話をもう少し続ける予定です。