アルバイトでアホみたいなミスをしました。管理人です。

 

 今日は認知行動療法の本を読みました。

認知行動療法とは、認知療法(自分の考え方の癖を知る)と行動療法(考えることよりも先に、問題のある行動に焦点をあてて治療してくこと)を合わせた治療法のことで、近年その効果に注目が集まっているのだとか。

 

 「考え方の癖」とは例えばこのようなものです。

皆さんは「髪が綺麗ですね」と言われたらどう返事しますか?

素直にお礼を言うでしょうか?この発言には何か裏があると訝るでしょうか?それとも髪しか褒めることがないのかよと卑屈になるでしょうか?このように、同じ言葉をかけられても、認知の歪みによってこれほどまでに受け取り方が違ってきます。

 

 考え方の癖にはいくつかあって、私は「全か無か思考」と「すべき思考」が強くて行きづらいのかもなという風に考えました。とくに白黒思考は前々から指摘されていたので「やっぱりな〜」という感想。「すべき思考」にも随分苦しめられています。「女性は結婚しなければならない」「もうこの歳では親元から自立していなければならない」等々、自分自身で自分の首を絞めているな〜と改めて思いました。

 

 この認知の歪みの元は「信念」であると作者は言います。信念とは幼少の頃から形成されて来た生きる指針。例えば「勉強すれば褒めてもらえる」「努力は必ず報われる(報われねばならない)」というようなものです。これはある意味で自分の人生を助けてくれるものでもあるのですが、全てにおいてそうではないことに気づかなければなりません。自分を苦しめるような信念はないほうがいいのです。

 

 本書で「なるほどなぁ」と思ったのは「怒りは二次感情である」というところ。私はよくイライラします。よく怒ります。しかし、怒っているのは結局「自分は大事にされていない。淋しい。悔しい」という感情が根底にあるからなのだということに気づくことができました。

 怒りをコントロールする方法は「伝えたいことに焦点を絞って言う」ことと「具体的な目標を設定する」こと、そして「スモールステップからはじめる」ことでした。

 

 本書の後半には自分の行動を記録して、満足度をふりかえり、気分に左右されずに行動できる療法が紹介されています。なんだか生きづらいなぁ、と思っている人におすすめの一冊です。

 

 

最近アルバイトを始めました。管理人です。

1日4時間のシフトで、週に5日間。

糞ニートひきこもりの私が社会復帰する足がかりにはちょうどいいかなと思って気軽に始めたのですが、なんと残業がほぼ毎日2時間、ひどいときには4時間あります。4+4=8ですよ。フルタイムですよ奥さん。早速出鼻をくじかれた私です。

 

 さて、本日の本は美輪明宏さん『強く生きるために』です。

私は美輪さん世代ドンピシャではないので。彼の過去のことは全く知りませんでした。ただ、三島由紀夫脚本の舞台『黒蜥蜴』を生で見た時は、あまりに感動して終演後しばらく椅子から立てず「美」の力に打ちのめされてしまったことをよく覚えています。

 

 『強く生きるために』は「なぜ生きるのか」という普遍的な事柄に関して、読者の質問への回答などを交えながら美輪さんが語ってくれています。酸いも甘いも経験して来た美輪さんの言葉は力強く、甘えを許さない厳しさがあります。しかしながら、瀉血のあとに体調がよくなるように、読み終わったあとは不思議と心が軽くなっているのです。

 

 心に残ったのは「人生は修行である」という考え方です。私は輪廻転生を信じていないので、魂のレベルというのはよくわからなかったのですが、「人生はそもそもつらいもの」と思っていれば「なんで私だけがこんなに不幸なの?」という視野狭窄に陥らないな、と目から鱗でした。

 

 また、文化は心のビタミンであり、努力して身につけるべき教養、という考え方も好きです。私も薹の立ちかけた女性ですが、人から愛される人格、教養、そういったものを身につければ寂しがる暇などない、という生き方にずいぶんと慰められました。死ぬまでに私がやるべき修行はまだまだ残っているのだ、と叱咤されました。

 

 正しい、正しくないは別として彼の独特な視点を獲得することは「強く生きる」ために大変有用であると考えます。悩んでいる方や快刀乱麻を断つようなスカッとした人生論を求めている方におすすめです。

 

 

 久しぶりにプールに行ったらありえないくらい筋肉痛の管理人です。

 

 本日の本は遠藤周作『イエスの生涯』です。

カトリック信者である遠藤周作が、資料と自身の想像を元に書き上げた、遠藤周作のイエス像が書かれている本であります。

 

 キリスト教徒といっても、信仰の姿は様々です。私も友人に何人かクリスチャンがいるのですが、ある人は精霊や天使、オカルティックなものに惹かれ、ある人はマリア様を敬愛し、ある人は儀式的なものにこだわり……という感じです。

 しかしその根底にあるのは、イエスという人が我々の為に十字架につけられて死んで、復活したのだ、という教義です。

 

 本書はイエスが旅をしながら教えを説いてまわったとき、ユダヤの群衆や議会、ローマの政治情勢がどんなものであったのかという時代背景が分かりやすく書かれています。イエスは旅の先々で奇跡を起こしますが、人々はそれを見て反乱軍・革命者としてのイエスを期待してしまうんですね。

 

 しかしイエスが本当に人々に与えたかったのはユダヤ人としての名誉や、怪我の回復など即物的なものではなくて、彼らが苦しんでいるときにそばに居る、そんな愛だったわけです。それに気づいていながらも、その考えを受け入れられなかったユダという解釈はイエスとユダの奇妙な一致で興味深かったです。

 

 さて、誤解の中、名誉を回復することもなくイエスは最低の死を迎えます。有名な「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」が詩編の最初であるということを、私は本書で初めて知りました。「どうして私を見捨てたのか?」というのはイエスが言いたかったことではなくて、その詩編(後半神への賛美になるそうな)を唱えていたのですね。

 

 イエスの死後、弟子たちは文字通り生まれ変わります。バーサクの状態異常です。本書のキモのひとつは「何が弟子達をそこまでして変えたのか?」ということです。遠藤周作は人の心の弱いところをよく知っています。私たちも恩師や人から貰った厚意から「心を入れ替えてがんばろ♪」と思うことはあれど、人生を変えるところまではいきません。3日もたてば、もとの怠惰で、狡くて、弱い人間になってしまいます。そんな弱い人間達を変えたのが「復活」なのではないか、という考察ですね。

 

 この復活に関する議論は、この本の続きといわれる『キリストの誕生』に書いてあるそうなので、そちらの是非読んでみたいと思います。

 

 奇跡を起こす、スーパースターとしてのイエスではなくて、隣人のために犬よりも惨めに死んだ愛のイエスを感じられた良い本でした。