十如是ノート | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

毎日毎日、ほぼ必ず「十如是」というお経を上げているのだが、その度にいろんなことが胸に去来するので、今までに書かせて頂いたことも含めて、十如是についてのあれこれを整理してみることにした。

 

十如是は法華経方便品第二の中の、ごくごく短い一節ではあるが、法華経の真髄として、天台宗の日常勤行でよく読誦されている。本文は以下の通り。

 

「仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」

 

ちなみに、書き下しは次の通り。

 

「仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、ただ、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。謂う所は、諸法の是(か)くの如きの相と、是くの如きの性、是くの如きの体、是くの如きの力、是くの如きの作、是くの如きの因、是くの如きの縁、是くの如きの果、是くの如きの報、是くの如きの本末究竟等なり。」(岩波文庫版より)

 

さらに岩波文庫のサンスクリット原典の対訳は以下の通り。

 

「如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴を持っているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。」

 

上記のように、原典では10項目(十如是)ではなく5項目であり、鳩摩羅什の翻訳のみ、何故か10項目となったそうだ。

 

ちなみに天台大師・智顗の主著「摩訶止観」に十如是についての解説がある。岩波文庫版では282頁の第7章1節1項ー1「不思議の境を観ぜよ」という箇所がそれで、「また十種の五陰は一一におのおの十法を具す。いわく如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等なり。まず総じて釈しのちに類にしたがって釈す」とあって、その後に細かい説明がある(大蔵出版から出ている池田魯參訳の「詳解 摩訶止観」では276頁)。

 

さて、十如是とは直接関係はないが、私が気になるパーリ語版・大般涅槃経の和訳である岩波文庫の「ブッダ 最後の旅」50頁に見える「法の鏡」という教えは、以下の通り。

 

「尊師がみごとに説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちに効き目のあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地にみちびくものであり、諸々の知者が各自みずから証するものである。」

 

そして、こちらも十如是と関係のない、タイの高僧プッタタート比丘の「観息正念」(三橋ヴィプラティッサ比丘・日本語訳)に、こんな箇所がある。

「最善の生き方を決める真理の秘密、すなわち、無常、皆苦、無我、空、あるがまま、という真理を正確に認識する必要がある。
形成されるものはすべて「無常」であり、終りなき流転の中にある、と知る。
形成されるものはすべて本質的に欲望を満たし得ない「皆苦」であると知る。
事物はすべて「無我」である、と知る。
事物は、どんなものでも、自我、私は、私の、が「空」である、と知る。
事物すべてを「あるがまま」に知る。
これらの一緒になったものが「究極の真理」である。心が、二度とその道を見失うことのないよう、この真理が完全に理解されるまで観察する」

法華経とは何の関係もない箇所なのだけれど、「諸法実相」と「あるがまま」(tathata=真如、実相)が対応していることもあり、以上に書いたすべてのことと含めて、私は毎日、十如是を声に出して上げている。

                         おしまい。
     

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」 に三橋師訳「プッタタート比丘「観息正念」を公開しています。