改めて天台宗の坐禅止観について | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

天台の坐禅については何度も同じようなことを書かせて頂いているのだが、先日、「比叡山時報」の2024年5月号に下記の如き文章が載っていたので紹介させて頂くことにする。

 

 

 

おそらくこれが現在の天台宗における坐禅についての最も最大公約数的な解説の仕方かと思ったので敢えて転載させて頂いたのだが、さて、これも何度も書いてはいるが、昔、私がタイでテーラワーダ比丘として修行中、当時まだ現役だった日本人比丘の大先輩・アーチャン・カヴェサコ師に、天台の坐禅止観とテーラワーダの瞑想には共通性があるでしょう? と言われ、いえいえ、今の天台宗で数息観で呼吸に集中する以上の坐禅を指導できるお坊さんなど居りませんよなどと、若気の至りで生意気な答えをしたものだ。

 

だがしかし、態度こそ若気の至りだったとは思うものの、その考え自体は今でも変わらない。例えば比叡山で一般の僧侶や在家檀信徒の修行時に使用される小冊子「坐禅止観・食事作法」の「正修止観」の項には、「初心者は数息観。または随息観など」とあるだけであり、また、それとは別に教師資格のある僧侶が専門に読む法儀集や作法集になると「初めは数息観、後に一心三観」とあるのだが、それらの作法集には一心三観についての詳しい解説は書かれていない。

 

そこから先は天台小止観や摩訶止観を自分で読んで研究せよということだとしても、作法集等には「一心三観は必ず善知識に依れ」とあるのにも関わらず、尋ねるべき善知識(この場合は習熟した止観修習者)が見当たらないのが日本天台宗の現状ではなかろうか。

 

止観修習に熱心な台湾などの中華仏教圏や、呼吸によって仏法を観ずるアーナパーナ・サティ瞑想に長けたテーラワーダ仏教諸国に、坐禅修行の希望者が流れて行ってしまうのも、宜なるかなだと思う。

 

 

                                                                おしまい。

 

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