法華経の思い出 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

・観音菩薩のことを考えていた時に、「観音経」を含む岩波文庫の「法華経」のサンスクリット原典のページだけを(岩波文庫は漢訳とサンスクリットからの日本語訳の対照になっている)読み直してみることにしたのだが、読んでいる内に色々と思い出すことがあった。

・この岩波文庫を私が初めて読んだのは、大学で神道学を専攻していた時で、先輩の論文に参考資料として岩波の法華経が出て来たのを読んで、興味を惹かれたのがきっかけだった。

・卒業後、神社に奉職した後、私は思うところあって出家得度し、天台宗の仏教僧となった。本山に上がる前に小僧修行させて頂いたお寺では、毎日の勤行時、法華経全巻を最初から順番に、交代で読経する慣例だったのだが、一番最初の「序品」に改めて感動した。霊鷲山で法を説く釈迦如来の周りに集まる菩薩・阿羅漢・仏弟子・信者、そしてこの世のものならぬ天龍八部衆を始めとする、神々・妖精・鬼神の類。その圧倒的で壮大なイメージが、私を魅了した。

・その後、所定の行を終えて、インドで修行させて頂いた時、巡礼に来た法華経を旨とする仏教信者の団体さんの中の若い方に、法華経二十八品の中で、どれが好きですかと聞かれ、そんな質問があり得るんだと興味深く思ったが、私が「序品」ですと答えると、向こうの方も、その答がとても意外だったらしく、絶句されたのを思い出す。

・今、上中下3分冊の岩波文庫を読み直していると、天台宗でよく使う、自我偈、神力品、観音経(観世音菩薩普門品)は全て下巻に含まれているので、ついついこの巻を改めて熱心に読んでしまう。この3つのお経は天台宗で日常に使うお経を集めた「台宗課誦」という経本に収められているので、普段読んでいるお経の意味を改めて日本語訳で読むことが、とても興味深くて楽しい。

・ちなみにこの「台宗課誦」には、やはり天台宗が重要視する、法華経の「安楽行品」や「十如是」も含まれているのだが、さて、「序品」で幕を開けた法華経は、第二「方便品」に含まれる十如是によって、仏の法の深遠なることを提示する。さらに第十四の「安楽行品」は天台宗の法華懺法という重要な儀式にも使われる経段だが、これは仏教徒が如何に生活すべきかを説いた内容だ。

・そして「安楽行品」までが法華経の「迹門」で、その後の第十五以降がいよいよ「本門」、第十六の如来寿量品とそのエッセンスである自我偈こそが法華経の肝要とされ、そして第二十一の神力品及びそれを受けた結末の第二十二「嘱累品」において法華経はクライマックスを迎える。

・その後の第二十三以降は、教えを流通し、一切衆生を教化するための経段で、その中でも最も有名なのが第二十五の「観世音菩薩普門品」だ。だからこの観音経は、法華経の内容すべてを踏まえた上で、信仰の対象を、観世音菩薩と観音を通して釈迦如来の説法すなわちブッダの教えに還元する構造になっている。

・ところで、法華経をインドに返すべく、インド各地に日本山妙法寺を建立した藤井日達師の古い本に、観音経は法華経の中では通俗的で、それほど深い内容のものではないと書かれていたが、しかし上に書いたような理由で、私は観音経が好きだ。

・或いは最近、日本のお寺の誰でも参加できる勤行で、導師の私が観音経を唱えたら、随喜(参加)されていた天台宗のお坊様方が、帰りがけ、その勤行・法要の内容自体には大変感動してくれつつも、一つだけ質問させて下さい、なぜ自我偈ではなく観音経をお上げになるんでしょうか? とお聞きになったものだ。

・やはり天台宗たるもの、いつ何時も自我偈でなければ、という感覚をお持ちの方も多いのだなあと思ったものだが、さて私が観音経を好んで上げるその理由を、その時はごく手短に分かりやすくお答えしたのだが、もしそれを長々と説明するとしたならば、今日のこのブログに書いたような事柄が、私の法華経に対する、そして観音経に対する、私的な思い入れなのだ。


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