ペットの名前のランキングというのがインターネットに出ていたそうで、或いは昨今の奇天烈な人間の子供の名前にしてもそうだが、ペットであれ、人間の子供にであれ、「名前を付ける」という行為には、名付ける人の側の何らかの思いや願望、理想の投影が含まれると思う。
例えば親が子供に××という名前を付けたなら、その親にとって自分自身が××なのであり、その親は本当は自分が××になりたかったのだと思う。
「名前」というものは、古来、神秘なものとされた。例えば、タイ人は日常生活でお互いにチューレン(ชื่อเล่น:ニックネーム、仇名)で呼び合うが、これは本来、彼らタイ人が本名を知られることによって、呪的な意味で不利益を蒙ると考えたことに由来する。
或いは妖怪はその名前を知られると呪力を失うとされるが、そのことはグリム童話の「ルンペルシュテルツヒェン」や日本の「大工と鬼六」といった昔話などにも片鱗を見ることができる。
さらにまた、モーゼの十戒に、「神の名を妄りに唱えるなかれ」とあり、神の名の発音が本来、秘密とされたことや、同じ旧約聖書に神が自らの名を聞かれて、「私は在りて在るもの」(英語では「I am who I am」)とのみ答えたのも、そうした信仰と関係しているのだろうと思う。
さて、名前や名付けというものは「言葉」に由来しており、そして言葉というものは「心」に由来する。従って本当は「名前」そのものに呪力があるのではなく、心の働きこそが、言葉を通した実際世界を左右するというのが、この世の現象の真相だ。
お坊さんは得度すると法名を授けてもらうのだが、これは世間の「名付け」とは反対に、「言葉」によって、そうしたこの世の現象の在りようをリセットするための、仏法に基づいた特殊な行為だ。
戒名も同じ原理で成り立っているもので、だからそれは僧侶に付けてもらわなければ意味がないのであって、自分で生前に、もしくは遺族が故人のために、雅号のような洒落た名前の戒名を付けるのは、昨今の世間の「名付け」と同じことで、自分自身の我執の投影でしかない。
お坊さんは師匠から法名を授かったら、その後は(宗派などにも寄るが)家庭裁判所で改名して、親からもらった名前を捨てる、という話を人にすると、必ずと言っていいほど、以前は何という俗名だったのですか? と聞かれるのだが、私は絶対にお教えしない。
もうその人は死にましたから、などと答えるのだけれど、それは奇を衒っているのでも、格好を付けているのでもなく、本当にそう思っているからなのであり、そしてそれくらいの覚悟があってこそ、「名前を付ける」という行為に、正しい効力が生じるのだと思う。
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