アジアの錫杖 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

タイでの修行を終えて、一旦、日本に帰り、四国八十八カ所を初めとして、日本各地の霊場を行脚した時に、何分、初めてのことなので、徐々に巡礼道具を買い揃えたものだ。

錫杖は大き目の仏具屋さんに出向いて購入し、包装紙に巻いてもらって持ち帰った。今思えばちょっと間抜けな図ではあるが、何事も初心の内だったのだから仕方がない。

網代笠も被りなれず、草鞋も履きなれず、錫杖は意外に重くて持て余すほどだったが、山道をたくさん歩くにつれ、杖というのは物理的に、歩行や登山の時に身体を助けてくれるものだということが、段々と分かって来た。

錫杖の金具の部分が色々と象徴的な意味合いを持つようになったのは後世の話で、インドにおいて元々は金具のガチャガチャ鳴る音によって蛇を除けるという、実用的な意味があったのだと、仏教辞典などには書いてある。

大乗仏教の比丘十八物には錫杖が含まれているので、インドでも仏教僧が錫杖を持った時代があるのだろうけれど、ブッダ時代やそれより少し後の比丘六物に錫杖は含まれておらず、現在のテーラワーダ仏教では強いて杖は使用しない。

ただティワリ尊者のような、杖を持ったお坊さんの行脚像はテーラワーダ仏教国にも存在するから、当然ながら、歩行や行脚を助ける道具として、ごく普通に杖を持つことはあっただろうし、想像するに当初はそこらへんに転がっていた竹や木の枝が使われていたことであろうと思う。

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             ※シヴァリ尊者像


さて、その後、金属部分の付いた錫杖の形はいつから始まったのだろうと思って、まずインド神話における神像・神画の神々の持ち物を見てみたが、大方は武具、すなわち矛や弓矢、刀を持つ場合が多く、杖を持っている絵としては、どうにかシュラバナ・クマーラという人物の絵が見つかっただけで、このラーマーヤナ中の登場人物は神々でも修行者でもなく、普通の杖を持っているだけだったため、参考にならなかった。

次に現代インドのサドゥー(ヒンドゥーの行者)はどうかと思って、手元にある写真集を見てみたら、杖を持っている率は意外に高かったが、それらは全て使い古された木の枝のような形状だった。


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(杖を持ったサドゥーの写真は無修正の裸体が多かったので、上の画像は杖の写っていない表紙の写真です)

一つには、ガリガリに痩せた修行者たちだから、実際問題として、身体を杖で支える必要があるのかも知れないが、マハトマ・ガンディーの杖と同じで、思想や信念を表すスタイルやポーズという象徴的な意味と、実務的な道具としての側面を、宗教者の杖というものは、共に含んでいるのだろう。この事情は、旧約聖書に出て来る「アロンの杖」や、おとぎ話や伝説における魔法使いの杖という、西洋文化の中の神話的なアイテムについても同様だ。


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ところで、ガンディーの杖はインドのニューデリーのガンディー記念博物館で、今も見ることができる。そう言えば、旅に明け暮れた日本の松尾芭蕉の杖も滋賀の義仲寺で見ることができるが、杖もそうやって祀られてしまうと、聖遺物としての執着が生じてしまいそうだ。

私が行脚の当初に購入した錫杖は、その後、インドで出会った日本人のお坊さんに上げてしまい、以後、行脚の時は手頃な木の枝を拾って杖にすることにした。行脚を終えた時に山中に戻してしまえば、手ぶらになって身体も心も、とても身軽で楽だった。



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