ところが何年か後の年末にチャイヤプームを訪ねたら、町中はクリスマス・モード一色。私のように、寺の外をうろうろと出歩かないプラユキ師が、ご存じないだけだったのだと、その時、気づいた。
という訳で、キリスト教徒でもないのに日本人がクリスマスを祝うなんておかしい、みたいな批判を仰る方があるが、そうした傾向は決して日本人に限らないのだなと思う。
さて、E.T.A.ホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王さま」は、クリスマスの日に主人公の少女の一家を訪ねた偏屈者のドロッセルマイヤーおじさんが語る、不気味なくるみ割りの物語によって幕を開ける。子どもの頃に、この物語を読んで、ドロッセルマイヤーおじさんのことを、素敵な大人だと思ったものだ。
その頃、普通にサンタ・クロースの存在を信じていて、サンタが自分の家の細い風呂の煙突を通るのは大変だろうなあと考えたりした。枕もとのプレゼントが、どこかのお店の包装紙に包まれていても、疑問に思うことは少しもなかった。
有名な「サンタ・クロースっているんでしょうか?」というニューヨークの新聞の社説は、真摯に答える大人の姿勢が感動的だが、それだけの覚悟も思索もない人たちの、迎合的なサンタ実在論は大嫌いだ。「サンタ・クロースは確かにいます、そう、私たちの心の中に。そして夢と想像力を信じた子どもたちは、大人になった時に、にっこり笑って言うでしょう、サンタ・クロースは確かにいたよ、それはパパとママなんだ」みたいな。
パパとママなんかではなく、或いは心の中になんかではなく、血と肉を持って、サンタは確かに生きていると主張するような、偏屈な大人が、私は好きだ。
ホームページ「アジアのお坊さん」本編もご覧ください!!