凡人の坐禅 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

・柳多留に載っている「坐禅して 去年の借りを 思い出し」という江戸川柳は、作品としては大してひねりの無い凡句だと思うが、実際問題としては、よくある話だ。
 
・名前は伏せるけれど、昭和を代表するある禅僧の方が、自分は坐禅中に良いアイデアが浮かんだ場合、すぐに忘れないようにメモをして、また坐禅に戻ることにしている、そうすれば坐禅を妨げることもなければ、アイデアを忘れてしまうこともない、という意味のことを得々と書いておられたが、何だかおかしくはないのかな?
 
・そう言えば、三橋ヴィプラティッサ比丘がインドのブッダガヤ日本寺の駐在主任でいらっしゃった頃、さっき坐禅しながら考えたんだけどね、とよく仰るので 、坐禅しながら考え事しててもいいんですか?  と申し上げると、わっはっは、まあ、そんな固いこと言わずにと、磊落に笑っておられたことなどを、今も懐かしく思い出す。
 
・ついでに思い出したのだが、日本寺の坐禅に来られる日本人旅行者の方たちに坐禅の指導をさせて頂いていた時、参禅者の方から、さっき一瞬だけなんですが、雑念が消えて、「無」の瞬間がありました、などと言われることもたまにあり、結構、困ったものだ。
 
・「無の境地」とか、或いはそれと反対の「雑念」とかいう言葉は、一般の日本人の方たちにも、わりと普通に浸透しているので、それが却って先入観となって、修行の妨げになることもあるような。
 
・ここだけの話だが、天台宗のお坊さんで、どうしても坐禅についての疑問が氷解せず、禅宗のお寺に参禅に通っているという方を、複数名、知っている。体面よりも求道心を優先するお気持ちは立派だと思うが、それぞれの教義が、ご自分の中で折り合いが付いているのか、ちょっと心配だ。
 
・実はそんな方の内のお一人が、大きな声では言えないが、呼吸を数えながら呼吸に集中する数息観という坐禅の方法は、坐禅の初歩、基本の基本みたいに言われているけど、案外、最後まで雑念なしに数を数え切るのって難しいよねと、仰っておられたことがある。
 
・実際、どれだけ坐禅の経験を積んでいても、その時の日常生活との兼ね合いで、「雑念」が次々と湧いて出ることも無くはないが、テーラワーダ式の瞑想であれ、大乗仏教の坐禅であれ、やっぱりまずは呼吸に集中、どんな時にも慌てず長く深い呼吸に戻らなければと、自分に言い聞かせる毎日だ。