アジアの十二礼…阿弥陀如来のメディテーション | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

 他力本願の浄土門では、一心に阿弥陀仏を念じることを勧めるが、だからと言って、それは阿弥陀如来ご自身も、ブッダの説いた縁起の理法、諸行無常の真理に無自覚だということではないし、そもそも阿弥陀如来の存在も、縁起の理法を離れてはあり得ない。
 
 自力門の天台宗でも他力門の浄土真宗でも同様にお馴染みの、12の項目に渡って阿弥陀如来を讃嘆する「十二礼」(じゅうにらい)には、「奢摩他行如象歩」(しゃまたぎょうにょぞうぶ)という句があるが、この「奢摩他」(しゃまた)という言葉は天台止観の「止」、テラワーダ仏教で言うところの「サマタ」であって、サマタ瞑想を行ずる時の阿弥陀如来は、象の歩みの如く、確かに確かに気をつけているというのが、この句の意味だ。

 阿弥陀如来を念じる「念仏」という言葉の「念」も、元の言葉は「気づき」を表す「サティsati」であって、テラワーダ仏教でもお馴染みの用語だ。とは言っても詳細な吟味もなしに、大乗もテラワーダもおんなじだとか、どちらも同じ仏教だから仲良くすべきだなどと言っている訳では決してない。

 ただ、外見がどんなにかけ離れて見えても、それが仏教である以上、それぞれの依って立つところの基盤は、一つだ。