アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

共同通信か何かの記事が元ネタらしく、いろんな新聞やインターネットのニュースに出ているのだが、インドのニューデリーにある寺院では、QRコードによってお賽銭を受け付けているとのこと。

 

それだけなら他国でもよく聞く話だし、インドでは早くから寺院のホームページを通じてドネーション(寄附)を行う方式が広まっているのも聞いてはいたが、今回のニュースで面白かったのは、門前の乞食が手製のQRコードを記したカードを首からぶら下げて、喜捨を乞うているという点だった。

 

そこで改めて何度も書かせて頂いているインドの乞食についてなのだが、私がインドのブッダガヤにある印度山日本寺に駐在中に出会った日本人バックパッカーの方たちから、乞食にお金を上げるべきでしょうか、上げないと良心が痛むけれど、上げたとしても嫌な思いが残ります、そもそもお金を上げることが、彼らやインドの社会にとっていいことなのかどうなのか、カースト制度って一体どうしたものでしょうかなどと、尋ねられることが多かったものだ。

 

「地球の歩き方」には当時も今も乞食への対処について長々説明した文章がインド社会の説明やインド旅行の心得を説いたページに載っているし、路上に眠るインドの乞食はまるで瞑想しているかのようだったなどという知識人の文章も、インド関係の本ではよく目にするところだ。インドの乞食だって金があるなら宿に泊まるし、家があるなら道では寝ないのに。

さて、そもそもインドには今も乞食のカーストがあるのだが、インドの各仏跡周辺では乞食の集団やサドゥー(ヒンドゥー僧)の風体をした乞食に混じって、インド人比丘(仏教僧)の物乞いが多い。

 

日本では現代インドの仏教についての論文や記事は政治的・社会的なレポートが多いけれど、彼らの実際の修行実態についてはあまり触れられる機会がない。一部とは言え、正式に戒律を受けて得度したかどうかも怪しいようなお坊さんたちが、各仏跡地にたむろしていたりすることもある。

 

乞食カーストに類似した制度は江戸時代の日本にもあり、乞食は徳川の封建体制によって組織化されていたが、江戸時代から明治にかけて「偽托鉢僧」も少なくなかったことについては、これまでも度々書かせて頂いた。

⇒拙ブログ「アジアの偽坊主」

 


ところで、比叡山のお坊さんの本だったと思うのだが、子供の頃、母親に連れられての寺社詣りの折り、門前で乞食にお金を上げて来なさい、ただしその後は、決して振り返ってはいけないよと教えられたという話が載っていた。

若い日本人旅行者の親たちの、そのまた親たちの時代なら、乞食に出会った時の対処など、無理に哲学的命題にしてしまうほどの問題ではなかったに違いない。

 

 

 

 

                                                                        おしまい。

 

 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。

「たしかにその力を持っていると信じこむのです。そうすればまもなく、あなたはコインやタバコをほんとうに消せるかのごとく信じられるようになります」

 ー ハーラン・ターベル著「ターベルコース・イン・マジック 第1巻」より

 

 

私が子供の頃に活躍しておられた奇術師・松旭斎晃洋師の演技を当時テレビで見ていたら、本当に掌からボールが消えたり湧いて出て来たりしたように見えたので、とても驚いた。

 

ただ、よく考えてみたら、晃洋師の奇術は自分が当時読んでいた、例えば「奇術と手品の習い方」(石川雅章著)や「一週間奇術入門」(柳沢よしたね著)といった昭和の手品本に出て来る「空中でボールが消える」「手からボールが現われる」といった現象と同じ技法を使っているだけに過ぎず、だがしかし、演じる人の演技力と表現力の素晴らしさによって本当に物体が消えたり現われたりしたように見えるのだということに、はたと気が付いた。

 

さて、こんなことを書いているのは、とあるプロ奇術師の方のブログを過去記事に遡ってずっと読ませて頂いていたら、ボールのような何かの品物を空中に放り投げて消す奇術(もしくは技法)について書かれた記事があって、「手の中で消す」のではなく「空中で消えたように見せる」という表現方法を人に伝えることの難しさについて述べておられるのを拝見したからだ。

 

私事ながら、現在プロマジシャンとして活躍しておられる方々のように本格的で高度な技法を子供の時に習得した、といった経歴や思い出もない癖に、奇術において「本当に消えたように見せる」「本当に消えたように見える」ことについては、幼い頃にとても興味を持っていたので、その方のブログ記事を大変面白く拝読させて頂いた。

 

そう言えば、これも子供の頃に読んだ松田道弘氏の「奇術のたのしみ」や「シルク奇術入門」の中に「ただし、この奇術には抜群の演技力が必要です」「物理的に物体が消滅することはありえませんから、『消えたように見せる』のですが、ここに術者の力量があらわれます」などと書いてあって、私はそうした文章にもいたく惹きつけられたものだ。

 

その少し後に、冒頭に引用したターベルコースの「あなたはコインやタバコをほんとうに消せるかのごとく信じられるようになります」という記事も併せ読み、そうだ、難しい奇術を演じなくても、本当にそのようにコインを消して見せることができるようになればいいのだと肝に銘じたことを、懐かしく思い出した。

 

 

 

 

 

                                                               おしまい。

 

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「梵網菩薩戒経」、通称「梵網経」の一部を抜粋した「梵網菩薩戒経偈」という短いお経をこの年になるまで暗記していなかったので、折角だから覚えてみようと去年に暗記した。

 

廬舎那仏と釈迦牟尼仏お二人のお名前、および「我」という一人称が頻出するこのお経、読めば読むほどに一体誰が説いているのか意味が取りにくい、私には廬舎那仏ではなく、釈迦牟尼仏が説いているように思えるのだけれどと考えて、船山徹氏の「梵網経の教え: 今こそ活かす梵網戒」という、梵網経の訳文を含んだ研究書を読んでみた(船山氏の前著「東アジア仏教の生活規則 梵網経: 最古の形と発展の歴史 」は高価なので仏教書店で立ち読みさせて頂きました)。

 

そうしたら、案の定、「廬舎那仏を本身とする我=釈迦牟尼仏は」という訳文を見つけた。華厳経における廬舎那仏と釈迦牟尼仏の関係をベースにしたお経だとは分かっていたけれど、やはりそうかと思えばこのお経を読んでいても、とても清々しい。        

 

※船山氏の該当訳文は「(釈迦仏である我は)、今や廬舎那仏として蓮華台に坐る」となっています。

 

                                                       

 

 

                                                                          おしまい。

 

「ホームページ アジアの経本」もご覧ください。

アニメ「一休さん」のLINEスタンプなるものの存在を、人に教えてもらった。

 

ただ、そのスタンプに添えられた台詞には「あわてない、あわてない」はあるものの「一休み、一休み」がなく、その他のフレーズは「ふーん」「ちーん」「わかってますよ」「お手上げですね」「ご冗談を」「やれやれ、またですか」「あ、そう」「苦労するよ」「うっわあ」といった、ちょっと小憎らしかったり皮肉な感じがするものがほとんどだった。

 

一方で、同じ方が教えて下さった天台宗の公式キャラクター「しょうぐうさん」のスタンプには、「にやり」といった台詞もあるけれど、「合掌」「ぺこり」「ごめんなさい」「よろしくお願いします」「お参り中です」「精進します」「お疲れさまです」といった、どちらかと言えば素直なものばかりで、なぜか一休さんスタンプにはない「ひと休み、ひと休み」までがある。

 

別に天台宗の肩を持ちたい訳でもないし、アニメの一休さんにはそうした皮肉っぽいキャラクターの側面が含まれているのも承知しているけれど、「お坊さん」をテーマにした「LINEスタンプ」ならば、ある程度、素直で穏やかな心を表す内容のものの方が良いのではと思った次第です。

 

 

 

               おしまい。

 

※ホームページ「アジアの一休さん」

※ブログ「その後のアジアの一休さん」もご覧ください。

従来探偵小説に使用せられた、おびただしいトリックの中に、「顔のない死体」と名づける一連のトリックがある。

          -「顔のない死体」 江戸川乱歩

 

被害者の死体が、実は犯人だと思われていた人物の遺体だった、死体の顔を認識できないほど傷つけておいて、被害者と加害者が入れ替わるというのが探偵小説における「顔のない死体」トリックの基本だが、これには様々なバリエーションがある。

 

このトリックについては何度か書かせて頂いているのだが、去年発行の「失われた貌」(櫻田智也著・新潮社)という作品が、このトリックを扱って出色だと聞いたので、改めて過去記事を整理して再投稿してみたく思う。

 

上記引用した乱歩の随筆では、内外の作品例を挙げた上で、文学史におけるこのトリックの起源は何かということも考察している。ミステリとしての起源はポオと同時代に活躍したディケンズの「バーナビー・ラッジ」であるとし、そして文学作品においては紀元前のギリシャの例を二つと中国宋代の例を一つ挙げている。

 

日本文学では「源平盛衰記」巻20の「公藤介自害の事」に触れつつも、この挿話はトリックとしての意味が薄いと書いているので、実際に勉誠出版の「完訳 源平盛衰記」第四巻(巻18-24)「工藤介自害の事」(公藤介ではなく、工藤介の表記)を確かめてみたところ、武士が自分の身元を分からなくするために首を切り落としてもらうという内容なので、確かにこれと同じ発想だけを言うならば、古今東西いろんな物語の中にありそうに思う。

 

それよりも乱歩の随筆には出て来ないが、文楽や歌舞伎でお馴染みの「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)の熊谷直実とその息子・小次郎のエピソードの方が、人間入れ替わりトリックの意味が濃いように思う。

 

このエピソードは「平家物語」や「源平盛衰記」には見えない、史実に基づかない創作である上に、江戸時代の作だから「源平盛衰記」よりずっと新しい資料ではあるのだが、文学における「顔のない死体」トリックの一つの例として、ここに収集しておきたく思う。

 

また、同じく江戸時代の作品である「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」の内の有名なエピソードである、菅秀才(道真の息子)の首改めのシーンも首実検の首を偽物とすり替えるという趣向なので、これも「顔のない死体」トリックのバリエーションとは言えないかも知れないが、採集しておくことにする。

 

ところで乱歩は、古事記、日本書紀、今昔物語、古今著聞集などに「顔のない死体」に関する話がありそうだがまだ確かめていないと書いているのだが、今昔物語集の本朝仏法部・本朝世俗部の両方を読み返してみたところ、このトリックの類話はないようだった。   

 

ちなみに古今のミステリにおけるこのトリックについては、下記の方々のブログに詳しい。

 

「新・真夜中にようこそ! 顔のない死体」

 

「物語良品館資料室 顔のない死体 死体損傷トリックの歴史」

 

上記各ブログには、新本格以降の日本のミステリ作品における「顔のない死体」トリックの多様なバリエーションも紹介されているが、その中では大山誠一郎氏の「顔のない死体はなぜ顔がないのか」が、このトリックに対する愛情を感じられて好ましい。

 

以下に古典的傑作とされている、このトリックを扱った有名作品を挙げておく。

 

エラリー・クイーン「エジプト十字架の秘密」

クレイトン・ロースン「首のない女」

江戸川乱歩「石榴」

横溝正史「黒猫亭事件」

高木彬光「刺青殺人事件」

笠井潔「バイバイ、エンジェル」

 

以上の内の「バイバイ、エンジェル」には、探偵役の矢吹駆が首切り死体の現象学的考察として「顔のない死体」トリックや首切りに関する人類学的・哲学的・探偵小説的分析を披露する場面があって面白い。ちなみに笠井氏の矢吹シリーズ第作「煉獄の時」も顔のない死体トリックがテーマだ。

 

というわけで、その内に機会があれば「失われた貌」を読んでみたいと思っている。

 

                                                                     おしまい。 

 

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