約1年ぶりに帰省してきました。
91才の母はあまり変わりなく、週5日ヘルパーさん体制で頑張っています。
ただ、会話の内容に繰り返しが増え、被害妄想も大きくなりました。
腹筋がないので、いったん横たわると自力では態勢を変えることもできません。
クルマで出かけるにも、座席に座り込むまでが大変です。
それでも
ゴミ出し
掃除
買い物
お風呂の介助
通院のサポート
簡単な調理
をヘルパーさんにお願いして、なんとか成立しているひとり暮らしをやめると言いません。
かかりつけ医にも同行してドクターとじっくり話しましたが、この先生
まだ大丈夫ですよ。僕の祖母も介護施設に入った途端に衰えましたから、家にいられるうちは家がいいですよ
と母のひとり暮らしを助長するばかり。
でもね、例えば先日玄関先でプランターの丸い鉢におしりがはまり、抜けなくなって四苦八苦しているところを運よくお隣の方に救済してもらった、とかあっけらかんと言うのをきくと、こっちは気が気ではありません。
本人は
あと1時間したらヘルパーさん来るからのんびり待とうかと思った
などとほざき、もし炎天下だったら熱中症で死ぬよ! と言っても
そん時はそん時
とにっこり。
ま、毎回この繰り返しですから、(妹とも話し合い)もう腹をくくっています。
食事に行った城山のホテルの庭で
13日と15日、おしょろ様のお迎えと見送りに行ったお寺
おつとめ中の本堂(この地は先祖を敬う土地柄)
閑散とした天文館
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ブロ友さんにいただいた、台湾からの引揚げ時(広島 大竹港)のビデオも一緒に観ました。
(↓米軍が記録した映像。意味深です)
以前母は、自分たちが引き揚げたのは1946年3月だった と言っていたので、ビデオの映像に映っている人たちにみおぼえがあるかも、と期待していたのですが
ちがう。私たちが引き揚げたのはこんな寒いときじゃない。オーバーなんか着てなかった
と宣い、その記憶が全くあてにならないことが判明。
じゃいったいいつ引き揚げたの?ときけば、
夏じゃないけど冬でもない
とあいまい・・・これ以上きいても無駄とあきらめました。
それでも、この動画の中の帰還兵の姿を見て、自分の父親(私の祖父)のことを思い出して泣きました。
戦争末期、南洋から生還したもののマラリアにかかっていて、引揚げ船を降りてからも隔離されたため、一家の荷物(布団など)を14才の母が頭に括り付けて大竹港の待機所まで運んだ、などと言います。この動画でDDTをかけられたことも思い出しました。
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中学生の頃住んでいた集落(島)に行ってみましたが、廃墟に近かったです。
この看板が物語るここの現状(誤字ですね 笑)
かつて住んでいた家はとっくになくなり、ジャングルと化して
結構多忙な中、すき間時間にありついた シロクマ(天文館むじゃき 中央駅店)
帰りの空港での食事
黒豚などの名物には見向きもせず、ヤマカタヤ食堂の定番メニューのかた焼きそば(麵半分)
そして(主食の麺を半分にしてまで)意地汚くここでまでシロクマ
でもやはり 似て非なるもの でした。
(氷のフワフワ感やミルクシロップの味が違う)