稲盛さん、父の高校の同級生(年はひとつ上?)だったそうです。
京セラwebより
戦後、新制高校に移行したての頃です。
父は50年も前に他界しましたので、稲盛さんのここまでのご成功のことは知らずに逝きました。
けれど、50年以上も前、「京都セラミック」は既に故郷鹿児島でも事業を展開していて、ニュースになりつつありました。
それを知った父が、
「こんやか、西駅で一緒にけんかしよったと」(翻訳すると、「こいつは、鹿児島中央駅付近で俺と一緒にけんかしてたんだよ」)
などと母に話していた模様。
稲盛さんも体力があり、父はラグビーで鍛えた体躯。
鹿児島中央駅前で、誰かをいじめていたやからに二人で向かっていったらしいのです。
昭和24-25年頃、父の申し出では正義の味方的な「けんか」ですが、かなりヤンキーなことはたしかです。
この夏、稲盛さんの母校 鹿児島大学内にある稲盛記念館内のレストランに行ったとき、ご著書がいろいろとあるのを知り、2冊ほど読んだばかりでした。
合掌