先日のことです。
以下のブログ(屏東紀行3 ↓)にメッセージをいただきました。
https://ameblo.jp/pingtung/entry-12197998485.html
昭和10年生まれのお母様と一緒にこのブログをご覧になっていて、そこに出ている地図↓(戦前の屏東の地図)
はそのお母様が住んでいた場所であること、そしてもしかしたらそのお母様のお姉さま(としちゃん)が私の母の同級生ではないか、と。
さっそく母(しまちゃん)に電話。経緯を話してもはじめはピンと来ないようでした。ところが、「としちゃん」という名前を出すと急に涙声に。そして、当時のことをまるで昨日のことのように話し始めました。「としちゃん」とは大の仲良しで、屏東病院の広い中庭でよく遊んだこと。そこに行くには高い塀を乗り越えなければならず、その意味でお転婆仲間だったこと。
近所には薬局や理髪店があり、それぞれ「たかちゃん」「のぶちゃん」という同級生がいたこと。
としちゃんは、いじめっ子があらわれるとさっさとみんなを促して場所を移動したり違う遊びに切り替えたりと、気転のきく、頭のいい子だったこと。
「としちゃん」宅は、下記地図の母の家のひとつ南のブロックの「ベラヤス」「購買部」の隣で、当時の母の実家と同じく商店を営んでいたそうです。買い物がてら祖母もよく出かけ、「としちゃん」のお母様とおしゃべりして楽しくやっていた、と。若き日の祖母の姿が目に浮かぶようで、74年前まで、そんな町が台湾の屏東に存在していたということが急に現実味を帯びます。
戦前の屏東病院(台北鉄道ホテルの登録所 より)
屏東病院あとにできた市場(柱が病院っぽい?)2016年夏
戦後、としちゃん一家も母(しまちゃん)一家もそれぞれ内地に引き揚げ、としちゃんやしまちゃんにとっては外国のような内地で青春を過ごします。戦後の困窮がひととおり収まりみんな家族を持っったころ、としちゃんが旅行でしまちゃんの住んでいた町を訪れ、祖母宅を通して「会いたい」と声をかけてくれます。けれど、当時のしまちゃんは子供二人を抱えた未亡人。屏東時代の友達に会いに行く金銭的・精神的余裕などなかった、そうです。しょうがなくとしちゃんは同じ町に住んでいた祖母や母(しまちゃん)の姉を訪ねてくれたそうです。
母(しまちゃん)は屏東会などの同窓会にも一度も顔を出せないうちに年をとり、屏東会ももうなくなってしまったようです。
そんな二人の軌跡が74年の時空を超えてネット上で交わった
この年でこんなことがあるなんて・・・。しばらく興奮しておりました。
来年、米寿を迎えるしまちゃんですが、カラッとした性格でよく笑い、今でも一人暮らしで頑張っています。
起伏の激しい道を歩いて来れたのには、屏東病院の塀も軽々と超えたお転婆な湾生という幼少期が少なからず影響しているように思えてなりません。
としちゃんも、今は一人暮らし。
「杖がないと歩けなくなってしまいましたが、これ又、大きな声で笑う湾生ばあちゃんです。」だそうです。
湾生あっぱれ!
そして、幻の屏東に乾杯