屏東縣屏東市戸政事務所に到着した。
ずっとメールのやりとりをしていたFさんがすぐに出てきてくれた。
さっそく母と私の戸籍謄本、パスポートを提出。
戦前の母の戸籍はもう政府のハンコつきで出来上がっていた。
屏東での母の足跡をたどるべく、戦前の地図とGoogleマップを用意して行ったのだが、屏東の役所の人たちが同行してくれるという。
そんなことまで・・・ 申訳ない気持ちでいっぱいだがお世話になることにした。
↓は役所の人たちと場所を特定して綿密にルートを練っているところ。
この日役所の人たちが案内してくれた場所(地図上の赤丸)
探索は母が通った小学校から始まった。ずいぶん立派で校舎も校庭も広い。
この写真を母に見せたら、当時は木造2階建て。さすがにこんな近代的な建物ではなかった。けれども校舎のレイアウトや校庭は変わりなし。
それにしても東京の学校の3校分ぐらいはある校庭と校舎。子供の数が多いのか?
この学校の1938年当時の授業風景(千尋萬年渓より)
母が9歳頃から住んでいた場所のあたり(旧本町)の建物。木造ではないのでひょっとして戦前のものかと撮影。このあたりに母の家があった。
ちょっと古い感じがするので母に見おぼえあるかきいてみたけど、答えは「ない」だった・・
さすがにいったんは建て替えられてるのかな。(写真がなぜか横・・・泣)
9歳頃まで住んでいたあたりの建物(旧末廣町 屏東病院のブロックの向かい)。これも記憶にないらしい。こちらも母の家は焼夷弾で焼けて跡形もなし。
目の前は病院だったが今は市場。この市場は病院を転用したもの?
↓は1940年当時の屏東市街。今より道が広かった。(千尋萬年渓より)
母が通った女学校
すぐ隣のブロックにあった臺灣銀行
母によると、「この建物は見憶えあるけどもっと古かった」
戦局が悪化し、2軒の家を焼夷弾で焼かれたあとに住んだ家のあたり(旧昭和町)
この左手にある建物のあたりだった。30~40年前に祖父母が帰屏した時はあったらしいが、さすがに建て替わり、マンションになっていた。
屏東の役所の人たちとランチ。御馳走になりました。
このあたりの名物の貝の料理(巨大な蜆?)がおいしかった。
母がエチオピア人と言われるほど日焼けするまで通った市民プール
当時から50mプール。
「なるほどね、こりゃ立派だわ」 昔、私が通っていた小学校の25mプール見て、母が「小さいなあ」とつぶやいてたことを思い出しました。立派ですけど老朽化著しくそろそろ取り壊しだそうです。
軍人の官舎跡
屏東では建物の保護に努めてきたそうですが、危険度が増しそろそろ取り壊しだそうです。
たしかに「警告」と書いてあります。本当に危ない感じ。
何もかも古いけど、なんていうか、南国のプランテーション風の雰囲気が出ていて素敵なのです。この時代の内地の建物がさえない色彩の木造家屋だったことを思うと、プールも官舎もかっこいい!台湾クール!
当時の超優良企業台湾製糖の敷地
お砂糖の価値が下がって今はそんなに儲からないとか。
台湾製糖の社宅敷地跡。母のお友達が台糖の社宅に住んでいて何度か遊びに行ったそうですが、「広くて立派」だったそうです。今でも界隈にexclusiveな感じは残ってます。
高級住宅地
このあと、空軍の基地(昔の陸軍屏東飛行場)にも連れて行ってもらいましたが撮影禁止。
そこは母たち女学生が特攻隊を見送った基地でした。
役所の人に、高雄までなんとクルマで送ってもらいました。
多謝。
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