待ちに待った戸籍を見る。なんだかドキドキ。
母の戸籍をリクエストしたのだが、母、祖父母、曾祖父母までの3代の戸籍が記載されている書類だった。毛筆の手書き。(当たり前か・・・)
期せずして、曾祖父母が台湾で戸籍登録した日付までわかる。
ちょっと驚いたのはこの記載↓
て、纏足??それに阿片? へ~割と最近のことなのね・・・と歴史オンチの私なんか目が点です。
この欄の意味は、Taiwan Todayによると
「種族」欄には「内(日本人)」、「福(台湾人)」、「広(客家人)」、「中(中華民国人)」などと記載され、出自を区別した。変わったものでは、アヘン吸引を特別に許可された人に「阿」、纏足の人に「纏」、纏足をやめた人に「解」などと記載されていた。種痘の有無については「感」か「不感」と記し、「不具」の欄には「聾」や「盲」、「瘋」といった文字が記されることもあった。
とすると、この母の一家の戸籍は、『日本人で、アヘン吸引の許可がなく、纏足はしてもいなければやめてもいない、種痘は不明、不具ではない人』ということになる。
こんな項目がなんで戸籍に?相当気になる。
調べてみると、日本の植民地統治の初期、総督府は、纏足と弁髪、アヘンの三つが台湾社会の悪習であるとみなしていた。しかし、総督府はそれらを一気に禁止するのではなく、学校教育や新聞、雑誌などを通じて、纏足追放と断髪を奨励していった、ということらしい。
要するに、保健所が保有していそうな記録が戸籍に記載されてるってことのようです。まあ、有難いといえば有難い。そうまでして纏足やアヘンを追放しようとしてくれて、さらに保健管理もしてくれてるんだから。ジェンダー論なんかで出てきた「纏足」は実は身近な慣習だったのですね。
当たり前ですが、戸籍には婚姻や出生の記録と共に死亡の記録も。いつ台湾にやってきて、どこに住み、引越しそして死亡し・・・と、それらにはきちんと年月日が記載されている。けれども戸籍のメンバーそれぞれの最後の行は、年月日もなくただ
「夫と共に転寄留」
「父母と共に転寄留」
という薄墨色の1行で唐突に終わっている。
1945年8月に終戦を迎え、その後1~2年をかけて日本人のほとんどが引き揚げた。母たちが引き揚げたのは1946年の3月か4月。その時にこの1行が書かれたに違いない。
日本が台湾を統治した時代はちょうど50年。うち、母の家族が台湾で過ごしたのは、おそらく大正2年にやってきて昭和21年に引き揚げるまでの35年間。
”外地”で、懸命に生きようと、濃密に過ごした時代が、この1行であっけなく幕を閉じたことを思うと胸が詰まった。
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