遠い屏東 | ☆ Pingtung Archives ☆

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60代おばちゃんの徒然です。映画やドラマ、本、受験(過去)、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。ブログのきっかけは戦前の台湾生まれ(湾生)の母の故郷、台湾・屏東(Pingtung)訪問記です。♬マークは音楽付き。

戦後が終わるころから、日本の各地に引き揚げて行った同級生から母にも時おり同窓会のお誘いがありました。けれど母は一度も顔を出せなかった。夫が早世、二人の子供をかかえて同窓会どころではなかった。

 

「いつか屏東に帰りたい」

 

屏東をあとにして71年、抱き続けてきた母の思いはなかなか実現しません。

心臓が弱く飛行機が苦手。そこへきてこのところ足元もおぼつかず・・

「ならば船で、車いすで行こう!」と言ってみても

 

「私には無理」

 

と弱気です。あんなにお転婆だったのに。

そんな母に観てもらおうと、このブログで知り合った方に教えてもらった「KANO 1931海の向こうの甲子園」観ました。私がブログに投稿しながら想像していた日本統治時代の台湾が映像化されたみたいで、ストーリーそっちのけでくい入るように・・観た。

 

(kano1931.comより)

日本統治時代の1931年、嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の野球部は、日本人と台湾人、原住民による混合チームで、当初試合に勝ったこともなかった弱小チームでしたが、松山商業高校の鬼監督を迎え、甲子園に出場、準優勝するという熱血物語。人種を超えたチームの成長と栄光の奇跡を描いた感動の実話。

 

1931年と言えば、母が生まれる前年。嘉義は台南よりも北の都市だけど、きっと屏東もこんな感じだったのかなと町の描写を見ながら想像した。

嘉義農林が甲子園で準優勝した年は、1945年の敗戦そして日本統治が終わるまであと14年を残す時期。大日本帝国が、その財力に不似合いなほどの肝いりで築いた都市やインフラは出来上がりつつあり、戦争の色もそれほど濃くないのんびりした時期。全編にほのぼのとした当時の空気が漂う。

 

KANOが(台湾大会の)優勝パレードをした噴水広場のロータリーのセット

 

こんな、レゴで作ったような土埃の舞う町で、内地人、台湾人(漢人)、原住民、そして大陸や朝鮮半島から来た人たちが溶け合って暮らしていた。小さなユニバース。屏東の学校で机を並べた台湾人(当時は日本人)の同級生の中には、戦後、アメリカやカナダに移住した人もいたと言います。その人たちは当時の政権に失望して台湾をあとにした。

この時代の台湾は、教育もよかった。普通の公学校での教育がファーストクラス。母を見ていて、1級の「自己肯定感」みたいなものを感じます。それは、戦後の日本で教育を受けた私たちにはないもの。人生それさえあれば何でも来い。ま、個人差かもしれませんけどね。

 

今度実家にこのDVD持って行こうと思います。

それにしても、チームのエース 呉投手役と、彼に淡い恋心を抱きながらも医者とお見合いして結婚してしまう女の子が美形。この人たちは台湾人という設定?それとも原住民?

 

屏東会という組織も2009年の訪問を最後に活動を停止。

http://rubylife.exblog.jp/10534341/

日本統治時代の台湾を知る人々もどんどんいなくなりつつある。

 

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