今年の春休み以降の一連の出来事(金の指輪 八女 戦前の戸籍 屏東訪問)がきっかけで、ブログに記録することを思い立ちました。時系列で整理するために5月の日付から始まっていますが、書きはじめたのは9月に入ってから。途中、戦争のことを調べたりして「遅れてきた自由研究」みたいになってしまいました でも結構面白かった。
屏東に渡った曾祖父母や祖父母の実家は農家で、長男じゃなかったり、女子だったりで内地で生きて行くのが大変だった人たちです。八女のほうの曾祖母や祖母の実家は大きな農家だったようですが、行ってみてわかったのは、相当な山奥であること。農業以外に活路を求めるのも容易ではなかったと想像できます。そんな山奥から、曾祖母は長崎に出ます。オランダ人の商館でメイドとして働いていたそうです。そんな彼女がなぜか静岡の男性(曾祖父)と出会い結婚。そして屏東へ向かう。このあたりミステリーですが、戸籍を見ると屏東に来たときにはもう夫婦でした。
内地で失うものがないから外地に夢を見た。多分そういうことです。当時の政策も背中を押したのでしょう。I have a dearm と船に乗った。オランダの影響でしょうか、当時から曾祖母は洋装で、仏壇の遺影も洋装(アルプスの少女ハイジに出てくるロッテンマイヤーさんのようないでたち)。
料理の腕前は超一流。読書好きで暇があれば朗読する人だったそうです。
そんな人たちが屏東という場所で、ひとときの夢を見た。一族を呼んで学校に出すまでの余裕もできた。そんな束の間の夢も、敗戦で振り出しに。そして戦後のことは、このブログに記した通りです。
小さい頃、誰に教わるともなく、母が台湾生まれとか引揚者というのはあまり言わないほうがいいらしいと感じていました。だから、今になるまでちゃんと向き合わずに生きてきたことを悔やんでいます。でも、遅いけど半年かけて、「汝自身を知る」旅に出ることができてよかった。「屏東」を通じて曾祖父母や祖父母と対話できたような気がしています。台湾という島で繰り広げられたひとときのファンタジーは、時空を超えて私たちの中に生きていると感じています。
カリフォルニアに渡ったという祖母の叔父ファミリーもその後どうなったのでしょう。どこかで子孫が生きながらえているといいな。いつか、曾祖母が働いたという長崎の旧居留地を訪れてみたいとも思います。
オランダ坂(wikipediaより)
長崎大浦居留地 大正時代(wikipediaより)
合言葉は Lucky Go Happy!
Happyのあとにどんな試練が待ち受けていたとしても、行かないより行ったほうがいい。そんなDNAを受け継いでいると信じてこの先も行こうと思います。
マニアックなブログにお付き合いくださいましてありがとうございました。
ご興味を持っていただけた方からのメッセージやコメントをお待ちしております。
Pingtung
曾祖父母 祖父母に捧ぐ
CCR 雨を見たかい
屏東空襲(中央研究院海外歷史圖資與典藏(Via Academia Sinica))
©2016-2017 Pingtung All rights reserved.