引き揚げてきて、とりあえず生き延びた母の一家だけれど、静岡での展開に限界が見えたのだろうか、終戦から10年近く経つころには祖父は場所を変える決心をする。行先は長女の嫁ぎ先の町。当時まだ存命していた長女の旦那さんが協力してくれたのかもしれない。一家そろって九州のとある町に引っ越す。昭和30年頃のことだ。
そこで祖父は、もう一度「商売」を始めた。そろそろ50の声が聞こえた頃で、今度は金物ではなく、海産物・乾物の卸。母もこの商売を手伝った。着実に人口は増加し、経済も高度成長期。地方の町でも商売は順調だった。けれど、商売の面白さが分かっってきた頃、母はあっさり勤め人のことろへ嫁に行ってしまう。その後、母の弟がこの商店を手伝ったが、あまり商売が好きではなかったらしい。祖父はずっとあとになるまで
「○○子が男だったらな~」
と残念がった。
祖父母はここで、朝5時に起きて夕方まできっちり働く生活を死ぬまで続けた。商売がうまく行って余裕ができてもそのリズムは変わらなかった。
家の一部は倉庫だったが、そこで自転車預かりまでしていた。海岸通りにあったため、フェリーで通勤する人々の自転車を夜間預かる(あるいはその逆)という需要があったのだ。
祖母は、休みの日以外は毎日、朝方自転車を倉庫から出し、夕方になると自転車を1台ずつ倉庫に格納する。そのせいか、年をとっても結構力があった。
料金(20円ぐらいだったかな)は日払いで、利用者から受け取ると、専用の木の箱にチャリンと入れる。
そのお金の使いみちを知った時、じーんとなったことがある。
私が中学か高校の頃、たまたま祖母といっしょに郵便局に行く用事があった。その時祖母は、自転車預かりのお金で長男の奨学金の返済をしたのだった・・・
祖母は、
「あと少しで終わるけん」
とにっこり。長男とは、あの、ストッキング事件の叔父さん。
戦後大変な時に大学に行かせてもらい、今では立派な大人になった叔父の奨学金を、自転車の預かり銭で祖母が返済している!当時の私は引揚げの苦労話なんか知らなかったけれど、なんか変だ、叔父さん知ってるのかなと思ったものです。でも今ではそれも祖母の幸せだったのかなと思います。母とはそーゆーものなんじゃないかと。
婚姻によってもたらされた運命がそれほど「当たり」ではなかった娘たち(叔母も母も若くして未亡人)のことも、陰になり日向になり道を照らして見守ってくれました。
夫が早世し悲嘆にくれていた母が、いつしか鼻歌を歌いながら仕事に出かけるようになったとき、
「あなたのお母さんはね、歌が出れば大丈夫!」
と、妙な太鼓判を押されて、「そうか!もう大丈夫」と根拠のない安堵を覚えた日を昨日のことのように思い出します![]()
この春、八女を訪れた翌日、30年ぶりぐらいに祖父母が住んでいた場所に行ってみました。今では家は壊され駐車場になっていた。(赤い四角のエリア)
このあたり、近くに大きなJRの駅があり、海岸通りということもあって、貨物が行き交い、上の写真の右側には日通の倉庫が並んでいました。
↓の写真、赤で囲った部分。(子供は筆者・・)
で、昭和40年代になんと馬が貨物をひいてこの倉庫にきていたのをおぼえています。(笑っちゃうほど田舎
)
パッカパッカパッカパッカ・・・リズムよく響く馬の蹄の音が祖母の家の記憶とセットです。
祖父母は、この地で永眠するまでの40年足らず、今考えるとそう若くもない体でみごとに第4章を走り切った。この人たちの第1章は生まれ故郷(福岡や静岡)での子供時代、第2章が屏東、第3章は引き揚げ後の福岡や静岡、そして第4章がこの九州の町。
そんな背景も知らず、地元の言葉ではない祖父母の言葉に都会を感じ、「よその人」であることがちょっと自慢だった。何のことはない、福岡弁と静岡弁だったわけなのだけど![]()
屈託のない、ガイジン的な人柄のせいか閉鎖的なこの町にも比較的とけこんでいた。
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