このたび屏東で入手した戸籍によると、母の家族が台湾に渡ったのは大正2年頃。
母の祖父母、私からみると曾祖父母にあたる人たちである。この夫婦には子供がなかった。
台湾での商売が順調だったふたりは、その商売を継がせるべく、それぞれの甥、姪を内地から呼び寄せることにした。そうして曾祖母の姪にあたる祖母が内地から呼ばれたのは大正末期~昭和初期。祖母は当初、台湾に行くことをいやがり、家の裏の大きな杉の木にしがみつき
「あたしゃいかんば~い」(日本のどのあたりかわかりますね・・)
と抵抗した。それでも当時の義務教育を終えるとおばに手をひかれて台湾に渡った。
当時の義務教育とはおそらく尋常小学校。義務教育が終わると間もなく祖母は台湾にわたり、台湾で逓信学校に通った。何年修学したのかは不明。そしてその学校を卒業すると「電信局」に務めたらしい。電信局での仕事の内容はよくわかりませんが、当時、女子の職業としては人気だったそうです。
↓は当時の電信局の写真
資料:郵政博物館
祖母はその後祖父と結婚し、電信局務めは辞めて家業を手伝うことになります。
家業は順調に大きくなり、「あたしゃいかんば~い」どころかすっかり屏東の人となり、幸せを掴みます。
台湾ではねえやと呼ばれるお手伝いさんのほかに、チャボと呼ばれる人たちが家の中のことを手分けして担当していました。子守、洗濯チャボさん、お掃除チャボさん・・・と専門のチャボさんがいる。従って、祖母は6人の子供を生んだけどあまり家事にとらわれることなく家業を手伝っていたらしい。
屏東の電信局務めの時の同期が宝塚に合格して入団してからは、宝塚まで観劇に行ったり、屏東に宝塚がやって来れば観に行く。当時の屏東劇場には歌舞伎や宝塚、淡谷のり子のような歌手などが頻繁にやってきたらしく、家が近かったこともあり屏東劇場にはよく行ったそうです。
屏東劇場周辺(「屏東会」作成の地図より)
祖母は自らも三味線を習い、娘たちにはあらゆるお稽古ごとを仕込み、母は宝塚を目指すなど、芸能的なことが大好きだった。
宝塚 wikipediaより
この方も私が持っているイメージとはちがう人だったのかな・・・(1938年)
13歳や14歳で、父母のもとを離れてたったひとり”外地”に赴いたときから波乱万丈だったけれど、屏東をあとにしてからの祖母の人生はまさにいばらの道。けれど、祖母の悲しげな顔は記憶にない。いつも朗らかでハイカラ。年をとっても背中が曲がったりせず、最期まで人の世話になることなく、夏のある日、83年の生涯に唐突に幕をひいた。祖母との思い出はいろいろあるけれど、私にとって、人知れず一隅を照らしてくれた人。今になって、祖母の偉大さが身に沁みるのです。
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