[以下の記事中「蒋介石」と出てくる部分は、母の記憶の中では「蒋介石」ですが、正しくは「蒋介石の使節 陳儀」のようです。~司馬遼太郎「街道をゆく 台湾紀行」により確認~]
母の姉は、敗戦の年(1945年)の12月に嫁いだが、戸籍を見ると、その転出年月日は既に民国34年と記されている。民国とは中華民国が生まれた1912年を元年とした年号。
8月に日本が降伏してから、着々と中華民国による支配へのシフトが進んだことがわかる。
興味深いのは、台湾では(少なくとも母のまわりでは)敗戦国日本の人たちが極端に虐げられたり、困窮させられたりすることがなかったということ。
蒋介石による中華民国政府が台湾を奪還するのだから、敵国日本の民など邪魔者のはず。けれど、生活にさほど変化はなく、まったりしたものだった。驚いたのは、敗戦後、蒋介石が台湾にやってきて各地の学校をまわった時に、日本人の生徒もいっしょに旗を振って迎えたということ。
当時、蒋介石軍はマンガになっていて、背中にしょった中華鍋と傘がトレードマークだった。
いよいよ屏東の女学校にも蒋介石御光臨の日がやってきた。
旗を振りながら出迎える女学生の前に現れたのは、そのマンガ通りのいでたちの蒋介石とその軍。
あまりに期待を裏切らない登場のしかたに固まってしまった女学生たちだった。
「みた?」
「噂どおりの格好だね・・・」
今の時代ならお笑いのネタかもしれないけど、そこはゆるく笑ってお茶を濁した・・・。
そんな、緊張感のない敗戦国民だった。
蒋介石 wikipediaより
陳儀(wikipediaより)
蒋介石のひ孫はイケメン newclassic.jpより
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