今から15年ぐらい前だったと思う。
鹿児島県の知覧特攻記念館に母と一緒に行ったときのこと。
入館して「若き特攻隊員の英霊コーナー」にさしかかってすぐに母が声を上げた。
「あら、アンドウ少尉!」 母は1枚の遺影の前で固まっている。
私たちは何が起こったのかもわからず、
「えっ?知ってるの?」
「この人たちを見送ったのよ」
「だってお母さん台湾でしょ。ここは知覧から出撃した人たちの記念館じゃないの?」
「そうだよねえ。でも、アンドウ少尉見送ったのよ、屏東で」
「・・・」
なるほど、鹿児島の知覧を飛び立った特攻機は台湾でいったん着陸した。そして機体の整備やら燃料補給やらして南洋にいざ出撃・・・だったのか。
遺影を目にするなり声をあげるあたり、12歳や13歳の脳に刻み込まれた特攻兵の記憶は全く風化していなかった。
当時の屏東では、屏東婦人会なる組織があり、特攻兵見送りのために婦人が結束し、出来得る限りの材料を集めて御馳走を作りもてなした。祖母も婦人会のメンバーだった。内地に較べて食糧事情がよかった台湾での食事に、特攻隊員たちは
「こんなにおいしい料理は本当に久しぶりです。内地ではいただけないものばかりです。ありがとうございました。」
と返礼した。
母の通っていた屏東の女学校の生徒たちも、特攻隊のお手伝いと称して、特攻機のお掃除や、出撃のお供をするマスコットを作った。
↓マスコット(群馬県の女学生らによるもの)資料:知覧特攻平和会館
特攻機は頼りないつくりで座席はボロボロ。母たちはほころびた座席をなんとフエキ糊で繕った。
そして機体を雑巾がけして磨いた。敵地まで辿りつくのすら難しそうな機体を前に、作業をしながらいつしか涙がこぼれたという。一緒に作業をした友人と小声で語った。
「ねえ、この飛行機ボロボロだよね」
「うん、ほんとに飛べるのかな」
「こんなので行くなんてひどい」
そんな会話をそばできいていた教師は、生徒を止めもせずそっと涙をぬぐったという。
↓特攻機 (知覧特攻平和会館より)
いよいよ出撃の日、母たちとそんなに年も違わない10代の少年兵たちは、その100%健康な身体で敬礼して特攻機に乗り込んだ。女学生たちが作ったマスコットをぶらさげて。屏東の基地から飛び立つと、特攻機は基地の上空を数回旋回する。これが本当のさようなら。そして遠い南方の空へ消えて行った。母は、少年兵たちのピンク色に紅潮したきれいな頬、清々しい笑顔が目に焼き付いて離れないという。
「子犬を抱いた少年兵-荒木幸雄-」 (wikipediaより 荒木少年兵は万世飛行場より出撃)
陸軍伍長 荒木幸雄が父にあてた遺書(wikipediaより)
最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
↓日本統治時代の陸軍屏東飛行場 「高雄州写真帖」より(大正12年頃)
母によると、屏東飛行場はその後どんどん大きくなり戦争末期にはこんな大きさではなかった。
特攻隊見送り(知覧) wikipediaより
特攻機突入により炎上するイギリス海軍空母 wikipediaより
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