東京大空襲や戦争映画でしか知らない空襲の映像。
だから、台湾でも空襲があったなんてつい最近まで知らなかった。でも屏東でも空襲は繰り広げられ母の家はなくなった。
ネットで調べると、
『米軍機が屏東を激しく空襲したのは、45年の春。高射砲が届かない高度からバラバラと焼夷弾を落とし、木造家屋ばかりの街は瞬く間に燃え上がった。』
というくだりも見つかる。↓は実際の写真。たしかに母の家のあたりから煙が上がっているのがわかる。
屏東空襲 (中央研究院海外歷史圖資與典藏(Via Academia Sinica))
空襲で家が焼けたあと、後片付けをしたりょうは、家に落とされた焼夷弾を数えながら拾った。比較的年が近かった母にりょうが言った。
「○○ちゃん、僕はね、家に落ちた爆弾を数えたよ。全部で38個あったよ」
こうして本町と末廣町の家は住めなくなった。
同じ頃、学校でも事件があった。学校の中で爆撃が始まり、母たちは必死で逃げた。母は一番近くに合った花壇の穴(防空壕)に飛び込んだが友達のひとりは一歩間に合わず腕に被弾。命はとりとめたものの、腕のケガの経過が悪く(治療もままならない環境・・)結局命を落とした。↓は屏東県共和新村の防空壕跡
一緒にタカラヅカを受けようと歌や踊りのレッスンに励んでいた友だち。生死を分けたのはほんの数メートルの差。母は遠くを見つめた。
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