November 2006
島田 雅彦
フランシスコ・X

フランシスコ・ザビエルの一生を綴った本。かなり史実に近いのだろうと思う。キリスト教徒の立場から書かれた当時の日本の姿がおもしろい。またプロテスタントの台頭に頭を悩ませていたイエズス会の考えや大航海時代の商人たちの実情も書かれていて、教科書には書いていない歴史の影の部分も知ることができる。個人的にはキリスト教はあまり好きではないのだけど、戦国時代の外国人も見たことがないような日本人にどうやってキリスト教を伝えたのか、ということに興味を持った。

ザビエルがどうやって宣教の情熱を持つようになったか、何を目指して宣教を行ったか、宣教の際に何について苦労したかなどがよくわかった。一番驚いたのが、当時ヨーロッパから日本まで渡ってくることは命懸けであり、二度と帰ることができない旅であったこと。そして異国の地で宣教活動が許されるかどうかもわからず、その地の君主に気に入られなければ直ちに殺されるというようなことも不思議ではなかったこと。

まぁ考えればそうなんだろうけど、それにしても布教ってもんは命を懸けてでもしたいものなんだなーと感心した。ザビエルをそこまで駆り立てたものは、ただひたすらに、神の栄光を与えることで地球上の人類すべてに幸せになってもらいたいという思いだけのようだ。自分の命を危険に晒し、報酬もなく、異国の地で軽蔑や不理解の目で見られてでも。初めは仏教の一宗派だと勘違いされ、多くの誤解を招いたり、言葉が通じないために結果的に間違った教えをしてしまったり、下手すると何を広めようとしてるのかも理解されないような状況で、よくやる気が萎えなかったもんだ。。。

でもそんな状況下で不況するにはある程度プラグマティックになるほかなく、自分では気づかないながらもザビエルの宗教感は変容する。そういうところが歴史の教科書には載ってないところでおもしろい。

有名人の伝記ってのは親しみがわく。三国志なんかもそうだけど、人物で見る歴史っていいよね。キリスト教への愛はやっぱり理解しがたいけど、ザビエルはこの本でぐっと近い人物になった。インドの修道院に今も安置されてるらしいからいつか会いにいきたい!



書くこと。そして伝えること。


ブログを始めてもう2年が経ちました。
当初の予想通りあまり更新できてないけど、ほそぼそと続けてるだけでも我ながら感心。
このAmeba blogは2年の間にだいぶ変わって、いろんな(余分な?)機能がついてしまったけど、まぁ編集しやすくデザインの選択肢は広がったかな。

結構いろんな本を読んできたなー。たまに振り返ってみるとおもしろい。
すでに内容を忘れてる本もあるけど、自分のブログを見ると思い出せるからいいね。

それにしても何で人は文章を書くんだろうねぇ。
記録のため?「王様の耳はロバの耳」的ストレス解消?自分を理解してほしいという欲求?
自分の言葉で人を動かしたい・世界を変えたいという思い?純粋に想像力・創作意欲のままに?
読者がいなくても書くのかな?

そういえばブログのおかげで、普通の人がものを書く機会は増えているのでは?
一般に、普通の人が書くものというのは、
①公開しない
②匿名で公開する
③著者がわかる形で身の回りの人々に公開する
④著者がわかる形で自分の知らない人に公開する
のどれかになると思うけど、インターネットが普及していない頃は、普通は①か③という選択肢しかなかったし、公開にはお金や時間がかかっただろうし、内容の良し悪しも問われただろう。
でも今は、簡単にタダで誰でも内容の良し悪しに関わらず可能になった。

これがいいことか悪いことかの判断は難しいけど、ぴもー的にはブログの存在は非常にありがたい。
ネットさえあればどこからでもいつでも作成・編集ができて、思ったときに書けるということ。
それが何よりもスバラシイ。
やっぱり「今書きたい!」という思いは突然湧き上がってくるし、時間が経ってしまっては書けない内容もある。
(そんなわけでこんな時間に書いてますw)
そう思うと、純粋に何かに心が動いた時、それを誰かに伝えたいというのがぴもーの「書く理由」かな。

そうするとじゃぁなんで自分の思いを誰かに伝えたくなるのか?ということになる。
これについては最近考え中・・・。

ヒントは、ケネディ大統領が暗殺された時、その翌日にはアメリカ全土の90%以上の人がそのニュースについて誰かと語り合ったというデータ。(昔、中学校の国語の教科書に載っていた文章より。うろ覚えだから数字は間違ってるかも。)
今で言うならSeptemberElevenに相当するだろう一大事件について、誰もが「誰かと話したい」という欲求を持ったということ。
しかもそれは一度誰かと話したら満足ということはなくて、同じことについて複数の人に何度も話したということ。

これって考えたら不思議じゃない??
まぁまだ考えがまとまってないので、とりあえずこの文章をもう一度読み直してみたいなー。
先着順!?


先日ラジオで聞いたんだけど、愛知県のある会社では、社員の採用方法は先着順なんだと。
「・・・まじ??」
そんな会社あるんかー。
就活してるそこのアナタ、今すぐ探してみてー(笑)
世界最小の歯車かなんかを最近作ったらしいからその筋じゃ有名かも。

その採用方法は社長のポリシーらしい。
試験して面接して選考したらたいてい自分の好きなタイプの人間ばっかり集まる。
それは会社にとってよくないことだって。
いろんな奴がいて、いろんな考え方があった方が会社はよくなる。
そのために選考はしない。来た人から受け容れる。
なんて大物・・・。自分の嫌いな奴でも入れちゃえるってすごいわー。
えらい博打にもなりえるが。。。
でも、自分の会社に応募してくるってだけである程度の選別にはなってるのだからそれで十分かもねぇ。
応募するってことがひとつのを作ってるから、完全なアクシデンタルではない。
だから先着順で採用することも別にリスクではなく、実はいい採用方法になってるのかな。

同じようなことがぴもーの読書スタイルにも言えるかなぁ(笑)?
人から薦められた本を読む。自分では選別しない。(なるべく。)
いろんなジャンルの本を読めて世界が広がる。いわゆる「広く浅く」になるけども。。。
でも自分に本を薦めてくれる人ってのはすでにぴもーと何らかの関係を持っているわけで、その縁を考えたら、人に薦められた本を読んでためにならないはずがないと思うんだよね。
結果的に読んだ本に好き嫌いは出てきても、必ず新しい何かを置いていってくれる。

今はのめりこめる本がないってのもあるけど、そういうスタイルがらくちんで最近はそんな読書をしてます。
何より、薦められた本を読む=貸してもらうってのがミソで、本を探したり買ったりしなくていいので◎なのです(笑)
October 2006

保坂 和志
カンバセイション・ピース

ソフトカバーで優しい感じの表紙に惹かれた。ちなみに裏表紙は茶トラの猫の写真になってる。
ストーリーというストーリーはあんまりなくて、エッセイに近い。一応フィクションなんだろうけど、主人公も作家なので、やっぱり作者が日頃考えていることを書き綴ったような感じ。
タイトルの通り、いろんなカンバセイション(素朴・不毛・非建設的・無意味・くだらない発言なども含め)を通して、作者の考える、時間や視覚・存在の有無についてのテーマがよく出てきた。
猫がたくさん出てくるのもこの本の大事な要素になってる。主人公・・というか作者は猫が大好きらしい。
猫の視点でものを考えるってのが、技巧じゃなく自然に作者の中に根付いてるように感じた。

気になったこととしては、一文が非常に長いときがあること。基本的には主人公が見たものの描写や会話が多くて、そのへんは普通の長さなんだけど、主人公が考えていることの時には「どこまで続くの?」って一文がたまに出てくる。
ぴもーが頭が悪いってのもあるけど、長い文ってよく読みこまないと理解できない。三重に否定を使ってたりするともうパニック(笑)
ある意味読者を惹きつけるテクでもあるのかな。

それから同じ場所で四人が二人ずつ会話している状況を、まるでテープレコーダーがそのまま記録したように、時系列に沿った書き方をしていることが何回かあった。つまりそれぞれのペアは違う話題について話しているのに、時間に沿って書くと、まったくかみ合っていないような会話が並べられることになる。
一瞬、「ん?」と思うんだけど、よく考えたら現実にはそんなこと当たり前で、さらにオーバーラップもおこったりしてるのに人間はちゃんとそれぞれの言葉を別々のグループの会話としてとらえることができる。人間てすごいんだなーと思った。
これも作者のテク(笑)?

自分の記憶の中に自分の姿が入っていることってあるよね?よく考えたらこれって変なんだけど、ぴもーは何とも思ってなかった。
作者はこれについて、記憶は思い出すたびに変化するものだからだと言っている。さらに、思い出すたびに変化し固定されないことが、記憶にとって大事なファクターだとも。「嘘と本当」「想像と現実」といった二分法は記憶には通用しない原理なのだ。
うんうん。だから歴史認識ってのも人によって全然違うんだよね。
二人の人が同じ体験を共有し、その時に同じような認識を持ったとしても、その後思い出す過程で記憶が変わっていくことで、ひとつの過去に対してまったく異なる二つの認識ができあがる。
歴史ってひとつなのに、何で歴史認識でもめるんだろうって昔は不思議だったけど、最近はそうじゃないんだってことがわかるようになってきた。

視覚について。
視覚は単に光学的な処理で完結している機能ではなくて、見えているものを時間と空間の秩序の中に組み込もうとするときに記憶や聴覚・運動の感覚などを動員しているもの。だからその過程で見えているものに視覚以外の要素が紛れ込むことがある。
そうすると、単に光学的に処理できないもの(科学的に人間に知覚できないもの)も「見える」というのは当然あることだ。
そこまでは書いてはいないけど、そういう思想を感じた。
科学の世界では「見る」ということが絶対の事実であると信じている部分がある(量子力学はちょっと違う)けど、存在しないものだって人間は見ることがある。オカルトでも何でもなく、科学的でないものもきっと見えるし、ぴもーも意識はしてないけど見てるんだなぁって素直に納得してしまった。

科学的ということについてはこんな一節もあった。
「科学的」という言葉は30年前はもっと今よりも権威があって横暴だった。たとえば漢方薬は単なる民間療法の一種だと考えられていた。それに比べると今の科学はずいぶん柔軟になって、伝統的な治療法や思考法に対して寛容になったが、自分こそが物事の真偽の判定を下す立場にあるという思い込みは揺らいでいない。
うーむ。思い込みかぁ。確かに科学に傲慢さを感じることもあるし、科学に対する「信仰」を批判する気持ちもわかる。わかるんだけど、科学を批判されるとなぜだか少し悲しくなる。。。

それから目からウロコだったのが、「自分が答えをわからなくても他の誰かがわかってるからいいんだ」という考え方。これは登場人物が小学校の授業中に考えていたこと。
この考え方は怠惰なようでいて、実はすごいことだよね。
まるで世界と自分が一心同体であるかのような・・・世界との関わり方として正しいあり方かもしれない。
もちろん自分がわかればそれはそれで結構なことだけど、自分も一員として参加している世界という共同体の誰かが認知していれば確かにそれで十分かもしれない。
ぴもーはどんなことでも全部自分で理解したい、理解しなきゃという気持ちがあったので、ちょっとぴっくり。
ちょっと気が楽になりますなー。

また、作者は野球も好きみたいで、野球観戦の様子もよくでてきた。
「だから負けた試合はどんな試合でも悔しい」という言葉が繰り返し用いられている部分があって、その気持ちは同じ野球ファンとしてよーーーく伝わった。
しかもそれは野球に限らず、さらに観戦にも限らず、自分がプレーヤーとして出場したスポーツの試合全部にも通じる。
大差で負けるのも、がんばって追い上げて僅差で負けるのも同じ一敗としてカウントされるのがスポーツで、内実を無視して単に勝った負けたを決めるルールだからこそいろんなストーリーのある試合が実現する。
ファインプレーもくだらないエラーもすぺてプロセスに関わりなく点数だけに還元されて、さらに点数の合計で勝った負けたに一元化される。だから負けた試合はどんな試合でも悔しい。

この本では、他にもいろんなことを考えていたけど、思考があっちこっちにいくから読者はついていくのが結構大変。。。
実際、人間てその通りなんだろうけど。
ちょっと前まで考えていたことがふと違うところに視線を動かすともう今考えていたことは消えうせて次のことを考えて・・またある瞬間にさっきまで考えていたことを思い出す。
そういうものもひっくるめて、日常的なリアリティーをきちんと文字化できているようにも思える。
それと、やっぱり猫を飼ったことがある人が読んだ方がおもしろいかもしれないなー(・<・)
心の告げることを信ぜよ、天よりの保証はすでになし。


シラーの「願望」という詩(?)の一節らしい。
この言葉をどこで目にしたのかさっぱり覚えてないけど、紙ナプキンみたいな紙に書きなぐってあるものを最近自分の引き出しから発見した。
きっと家じゃないところで本を読んだときに心に留めておきたくてとっさに書いたんだろうなー。
さて何年前のことやら・・・。

その紙にはこんなことも書かれていた。
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心の告げることを信ぜよ、天よりの保証はすでになし。 by シラー(願望)

神がいる、いないの問題ではない。
本当の意味でのキリスト者ってのは私たちよりもずっと主体的に生きてるんじゃないか?
どう考えても絶対に神なんてものはいない。少なくとも科学的に証明できるものではない。
そんなことは大前提であるからこそ、自分から自分の思うものを信じる。
私は?心の告げることを信じてる?・・・わけないっしょー。
心の告げることって何だ?
血湧き肉踊る興奮を求めてる。
それが何かはよくわからないけど、とにかく答えがほしい。
これのために生き、これのために死んだ、というものが。
理不尽に生まれて、理不尽に生きて、理不尽に死ぬことに答えを見つけたい。
心のままに、本当に心のままに自分の意思で存在したい。
これが生きてるってことだってのを追っかけてたい。
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間違いなくぴもー自身の言葉なんだけど、読んでて自分でも恥ずかしくなるわー(笑)
こんなこと思ってたんだー。

今はだいぶ、血湧き肉踊るようなものを求めなくなってしまった。・・・いいような寂しいような。
でもひとつ挙げるなら、ぴもーにとったらそれはソフトテニスしかないだろなー。
高校の頃なんかに比べたら勝利に対して懸けてるもの、重みが全然違うけど、やっぱり試合になれば興奮したり、狂喜したり、がっくりしたりする気持ちはあんまり変わらない。

世の中勝敗がつかないものもあるし、あえてつけなくてもいいものもある。時代の流れとしても勝敗を嫌う傾向がある。
それをどうこう言うつもりはないけど、でも勝利への欲望は最高の興奮を与えてくれるとぴもーは思う。

とにかく、ボール追っかけてるときが最高に幸せだ。
これがぴもーの心の告げることかな。

机の隅から発見されたボロボロの紙ナプキンからこんなことを考えた秋の夜長でした☆