July 2007

哀しい予感 (角川文庫)/吉本 ばなな
¥420
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実家に帰ったとき、兄の書棚から拝借し、寝る前に一息に読んでしまった。
残念だけど、あまり多くのものを心の中には残してくれなかったように思う。もう少し若いときに読んだら違ってたのかなとも思う。
登場人物のセリフがなんとなくそらぞらしく感じてしまった。
こんな素直さや純粋さはありえない、、、という気持ちが先に立った。

でもここに出てくるおばの家は非常に好きだ。大きい公園のそばで、木立の中にあって、古くてひっそりしている木造の一軒家。
そこに行くとなんだかほっとするような感じ。家の中はいつも散らかっていて、埃も積もっている。
その家の中ではどこで寝てもいい。眠くなったらそこが寝床になる。

おばが、「なかったことにするの」と言って家の裏に捨てた家具やゴミの山を見て、主人公が暗い気持ちになるところはすごくわかった。散らかっていても汚れていても不思議と愛着を持っていたのに、そういうやり方はとても不気味。物だけじゃなく、人間の存在も疎ましくなったら、そうやってあっさりと切り捨ててしまうのかという不安な気持ちになる。
それに粗大ゴミに出すでも燃やすでもなく、自分の家の裏という身近な場所にそうしておくということが何よりもやりきれない。おばはその後、これらをどうするつもりだったのだろう。そんな未来のことは考えないのか。それともいつか向き合わなければいけないことを知っていたのかもしれない。

でも、ともすれば人間てのはそういうことをしてしまいがちだよなぁ。まさに「臭い物には蓋を」の精神。物に限らず、人間関係、恥ずかしい思い出、犯した過ち、いろいろと蓋をしたいものは誰だってゴマンとあるだろうねぇ。
ぴもーもいつ、「なかったことにする」と言ってゴミの山を築き始めるかわからない。生きるってのはめんどくさいことだ。
June 2007
愛蔵版 グレート・ギャツビー/フランシス・スコット フィッツジェラルド
¥2,730
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どこかの本屋でたまたま手にとってパラパラと初めの方を立ち読みして、冒頭の部分の言葉が気になっていたので、図書館で借りてきたら、数時間で一気読みしてしまった。
名作ものってたいてい話が古かったり訳が変な感じがして、結構読むのが疲れるんだけど、これは違った。
村上春樹の訳がよかったのかは比べてみなきゃわかんないけど、読んでよかった。

今まで考えたことなかったけど、アメリカの東部と西部って、全然違う雰囲気なんだなーと感じた。
日本の東北と九州の差よりもずっと違う何かがあるみたい。
それを感じたのも、景色や街の地名や雰囲気がたくさん描写されているから。
人の評価もおもしろくて、イメージがふくらむ。
ものの例え方がセンスあるなーと思った。

ストーリーは単純といえば単純。
んなことあるかって感じの部分もあるけど、それが荒唐無稽に感じないのは舞台がアメリカだからだろうか。

恋愛とか結婚ってほんとタイミングだよなーと思ったし、一人の人をずっと愛し続けるってやっぱ無理、というかそんなことを自分にも他人にも期待しちゃいけないってことを感じました。。。
われながら感受性に欠ける感想だけど。

全体としてはやるせなくて、世の中って残念ながらそんなもんだよねぇとしんみりしてしまう。
読んだあと結構疲れた。

ギャツビーが死んだとき、葬式に参列してくれる人を呼ぶべく、ニックがあちこちに連絡をとるけど誰もこようとはしない。でもギャツビーの葬式に人が集まることって重要なのかなぁと思った。もちろんギャツビーは寂しがりやな感じがするし、周りの人もギャツビーに感謝と敬意をこめて見送るべきだという気持ちもわかるけど、実際にギャツビーの葬式に集まる人が全然いないだろうってのはギャツビー自身もわかってたんじゃないかなぁ。
んー。。。いや、わかってないのかなぁ。デイジーはビャツビー以外に愛せないととずっと信じていた人だし、自分が死ぬということすら想像したことがない人かも。だけどそれな傲慢じゃなくて、純粋に希望にあふれたまっすぐさによるものだったから、真実をつきつけることは非常に残酷なことになる。だからニックは、ギャツビーの葬式には、デイジーはもちろん、彼が純粋な心で歓待した多くの人たちに葬式に来てほしかったのかな。

素直で情熱的で、でも俗悪で見栄っ張りで。すごくあこがれるところとあきれるところが混在していて、ニックが人間として好きだとは思いながら完全に味方につけなかったのはわかる気がする。
フィッツジェラルドはどうしてこんな人物を考えたんだろ。ギャツビーみたいな人、実際にいるわけないし。
もしいたら。。。。

何度も読み返したくなるようなセリフや表現がちりばめられているけど、もう一回読むにはちょっとイタい。
読んだあとぐったりしそうで、しばらく置かないと、もう一度読む気になれないかも。

以下、本文から気に入った部分を抜粋。

--冒頭の一部。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ。」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

--ニックが初めてギャツビーを見たとき。
でも結局声はかけなかった。というのは、彼がそのときにとった突然の動作によって、この人物は一人でいることに満ち足りているのだと察せられたからだ。彼ははっとさせられるようなしぐさで、両手を暗い海に向けて差し出した。そして遠目ではあったものの、彼の身体が小刻みに震えていることがはっきりと見て取れた。僕は思わず、伸ばされた腕の先にある海上に目をやった。そこには緑の灯火がひとつ見えるきりだった。小さな遠くの光、おそらくは桟橋の先端に付けられた照明だろう。それから再びギャツビー氏の方に視線を戻したとき、そこにはもう誰もいなかった。僕は騒がしい夜の闇の中に、またひとりで取り残されていた。

--ニックが初めてギャツビーと話したとき。
その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。

--最後の段落。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
MAY 2007

中野 好夫
ジュリアス・シーザー (1951年)

友達が薦めてくれたので読んでみることに。シェイクスピアは、劇で「真夏の夜の夢」と「ベニスの商人」を観たことがあったけど、文章として読むのは初めて。当然だけど劇用に作られてるから普通の文章と書き方が違って、結構新鮮。

作品名から、シーザーの一生についての話だと思ってたけど、あの名セリフを吐いて早々にシーザーは死んでしまったのがびっくり。後はアントニー(アントーニアス)とブルータス、キャシアスの話。
ストーリーとしては単純明快だけど、セリフがやっぱりおもしろい。
いろんな比喩が飛び出してくる。普通そんな言い方しないだろーと思うけど、ちょっとマネしてみたいものもある。
シーザー死後直後の民衆に対する演説シーンがこの劇の一番の見せ所みたい。
ブルータスとアントニーそれぞれの演説の違いがなかなか。
歴史を変えるような演説を聴いてみたいもんだ。
とはいえ、今も昔も、演説がうまい奴には要注意。。。

シーザーの性格・素行や業績について全然知らなかったから、ぴもーはセリフから推し量るしかなかったけど、歴史を知ってればなおおもしろいんだろなーと思った。
それに、古代ギリシャにおけるローマという都市の特別さを改めて感じた。
ローマ人の誇りとか、国家への思いとかについて、ちょっとだけわかったような気がする。
ちょうど今(ローマとは別の都市だけど)スパルタについての「300」って映画が公開されようとしてる。観てみようかな。

ぴもー的にブルータスは好きだけど、好きだから、ブルータスの甘さと堅さがイライラした。
読み終わってみたら、やっぱりタイトルはジュリアス・シーザーでいいんだと感じた。
文章で読むより、劇で観たいなー。
March 2007
毎日新聞科学環境部
理系白書
ぴもーは理系に進んだけど、多分に文系的だとも思っている。
理系を選んだ理由は、「理系にいればいつでも文系にはなれる。文系になったら二度と理系のことはわからなくなる」と思ったから。あまり積極的なモチベーションではない。
理系の勉強についてくのは大変で、何度文転しようと思ったかわからないが、今は理系に進んでよかったと思ってる。

でもこの本を読んで、文系・理系って分け方をしてるのがそもそもダメなんかなーと思った。
文系だろうが理系だろうが、もっと幅広い知識が必要だよね。
理系だから歴史を知らないってことになると、極端なこと言えば、過去の悲しい歴史を繰り返してしまう兵器を作り出してしまう科学者が増えてしまうかもしれない。
文系だって、サイエンティフィックにものを考えるということを知らなければならないし、科学について知らなければこの文明社会を経済やら文学やらといった切り口で見ることもかなわない。
ルネサンスの万能人とまでいかなくても、もっと広い視野を持つためには、文系・理系なんてカテゴライズは害にしかならない。

・・・で話が飛ぶけど、大学ってのはもっと幅広い勉強をさせてほしいもんだよね。
させてほしいし、させなきゃいけないと思う。
教養としてちょこっとやるだけじゃなくて、ダブルスタンダードで。
それに、昨今は「大学で専門的技能を身につける」ようなうたい文句も聞くけど、そんなのは不要だと思う。
大学ってのは自由きままに道草くって、「こんなこと世の中の役に立つんかなぁ」といった分野の勉強でいいと思う。その代わり、しっかり学ばせる。

大学は研究所とは違う。
大学教授は先生と呼ばれる意味をしっかり考えてほしい。
ぴもー自身は大学教授の方々を先生などと呼んだ覚えはないけども。
彼らは「研究者の○○さん」であって、「○○先生」と呼べるような人たちはほとんどいなかった。
もちろん、手取り足取り教えろって言ってるわけじゃない。
学生のためになることだったらむやみに単位を与える必要はないし、研究の手足に使ってもいけない、かといって野放しにせず、研究の厳しさも教えなければいけない。
大学教授ってのは研究所の研究者よりもずっと責任が重い。

政府も大学の自由を奪わないでほしいし、大学も政府に屈しないで頑張ってほしい。
学長に文科省の元役人が就くなんて、もってのほか。
予算の偏りが激しすぎて地方大学は徐々に自由が奪われつつある。
日本の大学はどうなっていくんだろう。

この本はもっといろいろな角度で日本の科学の憂いやすばらしさを語ってくれているけど、大学についてが一番考えさせられてしまった。
毎日新聞、やるなー。

December 2006
新渡戸 稲造, 別冊宝島編集部
「武士道」を原文で読む

武士道はアメリカ人向けに英語で書かれたって知ってた?ぴもーは全然知らなかったっす。本屋に置いてあった「BUSHIDO」を見て初めて知った。
ならば日本語で読むより英語で読むべし!と思ったけど、原文は難しそう。。。気合が一瞬でしぼんで、妥協案としてこの本を読むことに決定。
見開きの左右に原文と対訳が載っていて、難しい単語や構文の解説とちょっとしたコーヒーブレイクがついている。珍しく衝動買いしてしまった。

心に残ってるのは、やはり「ハラキリ」について。切腹は自分の魂の内をあらわにして、潔白であることを証明することなんだって。昔の人は自分の魂がおなか(肝?)にあると信じて(感じて)いたから。それを思うと、ほんとに武士って潔いと感じる。もちろん、名誉を傷つけられたとかの理由で切腹してしまうことがいいことだとは思わないけど、切腹をした人を責めたり冷笑したりする気持ちにはとてもなれない。

それから、倹約の精神について。武士は倹約をモットーとしてきた。軍資金として金の勘定をする必要はあったが、金の価値を考えたり、口にすることは恥ずかしいことであるとされていたらしい。
贅沢は人間の最大の脅威であることを武士は知っていた。確かに贅沢=欲こそが人をダメにすると思う。
昨今は「金をもうけることのどこが悪い」とおっしゃる方も増えた。ぴもーもお金は好きだ。でもこの言葉になんとなく嫌悪感を抱くのはぴもーにも武士道の名残があるからかな(笑)

また仏教が、生への執着よりも、死を身近に感じ、平静に受け容れることを武士に教えたらしい。常に死を覚悟して生きること。避けられない運命にはおとなしく従うこと。危機が迫り、災難が降りかかったときも冷静に落ち着いていること。
これは現代においていいことかどうかわからないけど、学ぶべきものはあると思う。
どうにもならないことを「運命」の一言で片付けてしまいたくはないが、どうにもならないことの中でもプラスに考え、その中で落ち着いて自分を見失わないことは必要だと思う。
どんなときも取り乱さないこと。それが生死の境であっても。いつ突然に死が迫っても、死を受け容れる覚悟、そういうものをぴもーも常に持っておきたい。