May 2012

本は、これから (岩波新書)/岩波書店
¥861
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図書館勤務の友達から薦められて読んでみた。さすがに図書館勤務だけあって、本の未来についてまじめに考える機会が多いのだろう。

池澤夏樹も無類の本好きらしく、もちろん作家としても本の未来を思わざるを得ないんだろうな。
自分自身の本への思いだけでなく、いろいろなジャンルの人にこのタイトルで文章を書いてもらう、という考え方がいい。そして結論は何もない。答えを押し付けてこない。

私としては電子ブックは便利だし、単純に本は消えゆくのだろうな、とだけ思っていたけど、この本を読んだら、いろんな考えの人がいることに気付かされた。

いくつか、心に残ったキーフレーズを。

・すべての文化が物質から遊離して重さを失った時、ホモ・サピエンス・サピエンスは別の生き物になっているかもしれない。肉体だけは元のまま、という思い込みがどう維持できるか。・・中略・・本の重さは最後の砦かもしれない。(池澤夏樹)
・今時の装置は20年もすると使えなくなり、せっかくの記録媒体も無用の長物となりかねない。ITが栄えて、情報の記録がけつらくしていくのだ。その点、紙に書かれた記録が千年の歴史を刻んでいることを思えば、紙のたくましさとしぶとさを感じずにはいられない。(池内了)
・寝たきりになっているのに、大部な辞書を、開いては、読みふけっていました。この読書欲。知識欲。明日世界がなくなるとしても、万巻の書を読みたいと思ってしまう自分に、かつての父の姿がダブります。(池上彰)
・「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」『悲しき熱帯』の終盤に刻まれたレヴィ=ストロースによるかの一節がぼくの頭の中を反芻する。・・中略・・少なくとも人がいなくなった無人の荒野で、人類の歴史を語るのは電子書籍ではなく、物質に刻まれた痕跡としての活字であるとぼくは思う。(石川直樹)
・書き手なら・・だれでも、もっと多くの人に自分のメッセージを届けたい、と思うのは当然ではないだろうか?・・中略・・ネットの世界では、すでにブログやホームページで、自分の情報を無償で発信している人たちがたくさんいる。無償でも届けたい・・メッセージとはそういうものではないか。そしてふしぎなことに、情報とはそれにアクセスする人が増えれば増えるほど価値が高くなる、というふしぎな性格を持っている。(上野千鶴子)
・「おのれ自身を含む風景を鳥瞰する力」。・・中略・・読書はその力を涵養するための好個の機会なのである。・・中略・・最後の一項の最後の一行を読み終えた瞬間に、ちょうど山の両側からトンネルを掘り進んだ工夫たちが暗黒の一点で出会って、そこに一気に新鮮な空気が流れ込むように、「読みつつある私」は「読み終えた私」と出会う。読書というのは、そのような力動的なプロセスなのである。(内田樹)
・ゆっくり読む。ゆっくり声にだして読む。そうして、ゆっくり開かれてゆく時間をたもつ。どんな本にも可能とは言えなくとも、そうした自分を自由にできる、本との付き合いを一人一人が日々につくれなければ、新しい本の在りようもまた見えてこない。そう思うのです。(長田弘)
・マージンは、作品世界と現実世界をつなぐ「橋懸かり」であり、あるときは早朝の木漏れ日、あるときは午後の柔らかな日差し、またあるときは夕陽や灯火を映す。わたしたちはテクストtextを読み込むとき、不思議とそんなコンテクストcontext(=状況、背景、文脈)を印象深く記憶している。読書の達人ともなれば、テクストやマージンに書き込みを加えたり、ページの端を折ったり、本に独自の「足跡」を残していく。(桂川潤)
・二一世紀というのは、「何を読み、聴き、喰い、経験したか」という、加算的/攻撃的なプロフィールの時代が終わり、「何を読んでなく、聴いてなく、喰ってなく、経験してないか?」という、減産的プロフィールの時代だと思っています。加算的なプロフィールは、不可避的に「知ったかぶり/粉飾申告」という背伸びの強要を海、結果不安を増大させ・・略。(菊池成孔)
・検索エンジンを使って、あたかも自分の手で選んだかのような結果だけをスライドショーのように繰り出し続けることと、物理的に本を発見することは同じではない。アルゴリズムを借りたプロセスは、自分と本の中に記憶されない。人はさまざまなことをきっかけに、一冊の本を手に入れる。・・中略・・その中で、納得できる何冊かの本とほどほどに出会える才能がありさえすれば、たとえ「すべての本」に行きつかなくても人は幸福に生きていくことができると思うのだ。(柴野京子)
・今後、和本リテラシーの回復に成功すれば三千人は一挙に一億三千万になり、電子書籍はそれらの人々に先人の英知のすべてを公開することになる。”物としての本”の理解は、その上のこととしても別にかまうことはない。もちろんその時まで”物”を電子情報としてだけではなく、具体的に立派に保存・整理する義務は当然のことであり、また、電子化してこそ、その義務はより明確に意識されるようになるだろう。(中野三敏)

一つ確信したのは、科学・技術は文化を、世界を、人の考え方を大きく変える力を持っている、ということ。
池澤夏樹も認めているが、これらの文章を書いた人はやはり本の時代に育った人たちだから、考え方に限界がある。急激なパラダイムシフトに敏感に対応しつつあるが、それでも心の形成が本の中にある世代だ。
これから電子ブックを当然のように扱う子供たちにとっては今この時代の私たちの悩ましさなんてまったく無意味なのかもしれない。
そう思うと、文化というのは、科学・技術の前では非常に受け身的な存在だと思う。科学に近い現場にいるものとしては、それはそれでうれしい。だからこそ科学・技術の進化を推し進める側が常にその影響力を考慮しなくてはならない、ということも思う。

内田樹にしても、池内了にしても、五味太郎にしても、松岡正剛にしても、私の尊敬する人たちが文章を寄せているのも気に入った。また10年後に読み直してみたい。また、電子ブックで育つ世代にもいつかぜひ読んでほしい。