LED ZEPPELIN / HOUSES OF THE HOLY (1973) | 極私的洋楽生活

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豚袋でございます。



またまた放置ブログ状態にしてしまいました。気が付けば前回記事よりひと月近くも経っており、その間にマイケル・ジャクソンさん、ファラ・フォーセットさんが亡くなり(合掌)、ブログ開設2周年も軽くスルーしてしまいました^^。毎度のことながら遅筆記事、遅筆訪問、遅筆レスと三拍子揃ったブログで申し訳ございません。遅々として細々ながらも続けて行きますので何卒皆様におかれましては愛想つかさずお付き合いのほど、よろしく御願い申し上げます^^;



しかしながら物が売れなくて困っております。プロパー時期に「市場性と合わず売れなかった物」はセールになって価格が下がってもやっぱり売れないものです。「価格が下がって市場価値と合致したもの」が売れるわけですが、今年はその価格のバーが低くて困っております。再値下げや下取り等他の付加価値をつけていかなければ中々購買には結びつかないという、難しい時代に突入している実感があります。価値が低価格前提に偏り過ぎている気がします。困ったものです。企業努力は当然必要ですが、政府および日銀はこの起こりつつあるデフレスパイラル的状況を的確に把握しているのか疑問を投げつけたくなります。無策ではもういられないのは明白だと思うのですが。



思わず仕事のグチがでてしまう今日この頃ですが前置きはこのくらいにして、さておき久々の記事。しかも遅きに失したとはいえ開設2周年越えの通過点ということで、やっぱり節目はこの人たちの事を書こうかと思います。私にとっては特別なバンド、レッド・ツェッペリンを取り上げたいと思います。ZEPPは後追いながら私が唯一、アルバム発売順に聴いていったバンドでございます。当ブログ唯一の時系列レビューとなっておりますのでお時間が許せば過去記事もご覧下さいませ。

(リンク↓)

「Ⅰ」

「Ⅱ」

「Ⅲ」

「Ⅳ」

「永遠の詩」



さて、歴史的名盤と言われた前作を堪能したあと、時系列として次に聞いたのは当然この「聖なる館」になるわけです。このアルバムがリリースされたのは1973年ですが、私が聴いたのは1977年のおわり頃、中学1年生だったと思います。まずはレコード屋でこのアルバムを買うのに若干の抵抗がありました。もちろんジャケットのアートのせいです。幼児ヌードは当時の田舎の良識的な閉鎖世界では不健全とされる類のもので、まだウブだった豚にはいかに「アート」という免罪符があったとしても購入には多少勇気が要りました。(スコーピオンズの「ヴァージン・キラー」を買うのに比べたら屁でもない事でしたが・笑)でもアルバムのアートワークは本当に美しく、ゼップのアルバムの中でも1、2を争う秀逸さであったのは間違いないと思います。さすがヒプノシス!幻想的な色合いと構図はいやがおうでもアルバムの内容世界の想像を掻き立てます。



このアルバムを聴く前には当然いろいろな雑誌で評判やら何やら目にしておりましたので、相当に賛否両論ある事も事前情報として知っておりました。ZEPPのもともとの素晴らしさというのは、ハードかつブルージーでしかも圧倒的にダイナミックなロックサウンドが象徴的で化け物的なド迫力パフォームが根底にあり、その沿革としてのアコースティックサウンドが彩りを添えるという構図にあったと思うのですが、このアルバムは評判としては「実験的」とか「軟弱・小粒」とか「本来的ではない」などあまり評判がよろしくなかったのを記憶しております。そういう事前情報を知ってしまうと固定観念的な聞き方になってしまうのですが、私にはこのアルバムがどう考えても批判的に聴く事はできませんでした。



最初の曲、The Song Remains the Sameを聴いた瞬間からそこにはグイグイと引っ張る引力満点のいつものZEPPグルーヴがありました。しかしながらいつものZEPPと違うのは次のThe Rain Songから感じられます。ジャケット・アートのムードを象徴するような幻想的かつ情緒的なこの曲は、メロトロン使いのせいもあるのでしょうが今までのZEPPにはない触感がありました。そして次の「丘のむこうに」でその異質感は決定的なものとなりました。





サードのB面を彷彿とさせるようなアコースティックな導入からボンゾのドラムでブレイクし、プラントのボーカルの転調するする瞬間は何度聞いてもカッコ良すぎます。ギターがリズムに付いていく展開です。それまではリズムがギターを生かす事が多かったのですが、リズムに合わせたリフをギターが奏でている気がします。そこが今までと違ったように感じたポイントなのではないかと思います。さらに次以降の曲に至っては今までのZEPPサウンドの延長上では考えられない音が生まれます。





このトリッキーなファンクは衝撃的でした。確かにZEPPに期待するシロモノではないのかも知れません。が、こんなにヒネリのあるファンクを誰が作る事ができるのでしょう?ファンキーだけどトリッキーなので踊れないファンク。延々とリフを重ねグルーヴしてゆく事がその生業であったスライはじめあまたのダンスオリエンテッドなファンクミュージシャンとは発想を異にするファンク。お遊びと割り切るにはもったいないほどの発明品だと思います。





この曲がもっともこのアルバムの賛否の分かれ目になった曲でしょう。レゲエ風と評されておりましたが、私は当時レゲエが何たるかもよくわからなかったので、何となく雰囲気南国エスノミュージック的な捉え方をしておりました。もっともレゲエを聴いてから改めてこの曲を聴くと、レゲエではない事がよくわかります。どちらかというとカリプソ。レベル・ミュージックとしての要素のかけらもない、ただ裏拍子をとっただけのどちらかと言えば「なんちゃって」であり、茶化す対象のないパロディーに近い音楽だと思います。プラントの気だるいわざとらしい歌い方ひとつとってもそれは感じられます。前出のファンクとあわせ、これは真剣なお遊びなのだと思います。



「アメリカ市場を制覇していなかった彼らが、アメリカのマーケットを制覇するためにファンクやレゲエの要素を取り入れて手っ取り早くキャッチーな曲調にしてセールスを狙った」的な事がよく論じられますが、それは的はずれな見解だと思います。セールスはあくまで結果論です。前作でひとつの高みを極めてしまった以上、そこから先は大きく舵をとって変革していく必要があったのだと思います。マーケット意識よりも自己変革の必要があった。その決意と自信は、初めてアルバムに「正式な」題名を付けたという事が象徴的です。それまでのアルバムは全て「LED ZEPPELIN」のⅠ、Ⅱ、Ⅲ、ⅣでしかもⅣにはタイトルすらつけなかった彼らが「アルバムタイトル」を付けたことに並々ならぬ意思を感じとるのは過ぎた妄想でしょうか。



初期から続いたハードサウンドの雄としての地位に甘んじることなく、彼らは(特にペイジは)単なるハードロックの枠組みや様式美にとらわれる事を拒み、アレンジャーとしての資質を開放し、また即興的なギターサウンドの封印と徹底したリフへのこだわりにより、広範囲で拡大的な音楽性を手に入れたかったのだと思います。それが結果としてファンク風やレゲエ風やプログレ風に振れたため全体的に散漫なイメージになってしまったので、アルバムの完成度という点では他に比べてひけをとっているかもしれません。しかしながら広範囲な音楽性を模索しながらも結果としては疑う余地のない「ZEPP節」になっているのが彼らののすごいところだと思います。どんな音楽でもZEPP節として昇華できることを証明した事が次の「フィジカル・グラフティ」に結実していくわけですな。



最後に私も大好きな曲で締めたいと思います。メロトロンと不協和音をあえて交えたギター、そしてプラントの気だるいボーカルが、どこの国でもないような不思議な郷愁と雰囲気をかもし出しています。あーどうしてZEPP記事は思う通りに表現できないんだろう。このバンドの素晴らしさを伝えるのに言葉が足りない。とは言ってもまた書いちゃうんですけどね(笑)

それでは、また。