ピアノマンの逆襲

ピアノマンの逆襲

本業の傍ら、曲を書いたりピアノやギターで弾き語りしてます。毎週金曜24時からFacebookにて「クルマの中から弾き語り生配信」やってます。その他ライブバーでの弾き語りライブ、ギター流し活動等もあり。



久しぶりの更新です。情報はFacebookやTwitter、インスタにあげるようになってしまい、アメブロはサボりがち…。ですが大変元気に活動しております😊

懐かしい記事を再掲してみます♫


少し心が弱っている時は、学生時代に聴いていた曲や当時コピーしていた曲を聴いて自らをヒーリングするようにしています。


特にMy Little Loverの「now and then」や「YES」、イエンタウンバンドの「スワローテイルバタフライ」あたりを聴くと厚木に通っていた大学1年生の秋や冬を思い出します。

バンドでもコピーしたし、キーボードを担いで東京の自宅から山手線、小田急線、バスを使って片道2時間掛けて通ったことも良い思い出です。


今でもたまに朝の通勤電車で、これらの曲を聴くと「このままキャンパスにバンドの練習に行くんじゃなかったっけ⁉︎」なんて錯覚してしまう時があります。

小田急線の車窓から見えた街並み、バスの車窓から見えた田園風景、キャンパスを囲む丹沢山地の自然の景色など、どれも印象に残っている美しい風景でした。

今もそんな自然の風景や気候、そして音楽がリンクすると、当時の自分にあっという間に戻ってしまいます。そして、当時の仲間の姿も当時のまま浮かんで来ます。


今やもう50歳も見えてきて、人の親であり社会的や役割も担い、親の心配もしなければいけない年頃になって、ここまで来れたことに感謝の気持ちはあるものの、あの頃の「自由」と「若さ」が懐かしくなる時もあるものです。

もしかして現在が長い夢を観ているだけで、朝目が覚めたら当時の自分に戻っているんじゃないか?とすら思うこともあります(笑)

でも、そんなことがあったら大変。それ以降に出会った人たちがみんなマボロシになってしまいますからね(^◇^;)


そういえば1年生の冬にマイラバとイエンタウンバンドのコピーバンドを結成したのですが、キッカケは秋の学園祭の後の居酒屋での打ち上げ。

バンドサークルで3日間に渡る教室ライブを終えて渋谷の和民とかつぼ八あたりだったかな、そこで全部員でドンちゃん騒ぎをしている中で、ドラマの「まっつん(仮名)」と言うクセが強く無駄に意識は高いけど、それなりのスキルのある彼と、「ボーカルの、特に女子はカラオケの延長線上のヤツが多いし、もっと真剣にバンドやる奴と組みたい」と言う話になって、バンドメンバーを2人で飲みながら選出していた思い出があります。


本当に今思えば何様?って感じですが(笑)そこで結成したバンドは今でも思い出すくらい良いバンドだったなぁと思います。キーボードも弾きがいあったし。そんなことを考えると、やっぱり自分の根っこやアイデンティティはバンドのキーボーディストなのかなぁとも思ったりします。

バンドのリーダー、コンポーザー、キーボード、そして女性ボーカルに歌ってもらうことが1番の理想なのかも知れません。







流行りの曲を聴かなくなってどのくらい経ったのだろう?
何だかんだと社会人3年目くらいまでか…
仕事が忙しくて余裕もなくなったし、結婚したり子供が産まれたりしてテレビも観なくなりますます新しい音楽に触れる機会も減っていった気がする。

そして、ふっと気が付くと流行りのミュージシャンたちが自分よりも随分歳下になっていることが分かり…。そうなると、もう自分たちに向けた歌ではないと思い、「歳下のミュージシャンの歌に感動してたまるか!」的な変なプライドもあって(苦笑)どんどん流行りの歌から離れて、若い頃聴いていた曲ばかり聴くようになっていった。
その方が安心だし感動できたし。

そうなるとよくありがちな「最近の曲は良くない。昔の曲の方が良かった」という根拠のない持論を展開するようになる。これっていつの時代も「今時の若者は〜」って言われるのと原理は同じ気がする。

一方で、音楽をやっているのに洋邦のトレンドもチェックせずに何してるのだろう…?とも思ったりもしたので意図的に最新曲を聴いたりする時期もあったけど、やっぱりいまいちピンと来なくて、結局追っかけるのをやめたりとかしてね。

そんな中でも藤井風君とかどハマりしたのは、自分の中でも嬉しかったし、セカオワや髭男、YOASOBI、あいみょんも良いと思ったりもできる自分もいた。それなりに歳を重ねたので、変な嫉妬や対抗意識なく若いミュージシャンを応援できるようになって来たのかも知れない。

そして最近思ったのだ。
やっぱり好き嫌いに関わらず、最近のヒット曲を聴こうと。
曲に限らず、最新のニュースやトレンド情報もしっかり追いかけていこうと。

やっぱりこのくらいの年代になると、新しい経験が少なくなり、その分、知識や経験で対応できてやりやすくはなるんだけど、マンネリや停滞感と戦うことも増えて来る。
そんな時、世の中はどの分野も常に動いているし進化してるし、同時に自分もどんどん世の中の流れから置いていかれるのだと思う。

日々のマンネリを不満に思うということは、イコール、自分が様々なことに乗り遅れていることに気づいていないとも言える。目まぐるしく変化する時代の波が見えなくなっているとも言える。
これは非常につまらないし、そのためには好き嫌いではなく、やっぱり「現在」をしっかり観るべきだと思ったのだ。

実際には今まで以上に意識してみると、自分の中で何かが動き始めた気がしてる。錆びたアンテナがまた電波を受信し始めたような、そんな感覚である。
幸い今の時代はサブスクリプションがあるので、いちいちレンタルCDに行かずとも手軽に最近曲やヒット曲を大量に聴くことができる。

CDカルチャーが廃れて賛否両論あるが、YOASOBIの「夜に駆ける」の再生回数が10億を超えたとのニュースがあった。これって配信だからこそ得られる情報、事実であり、それを考えるとこんなことが分かるのはミュージシャンにとっても良い時代になったように感じる。CD時代は売上枚数は分かるけど、再生回数、つまりどのくらい聴かれているかは分からなかったからな〜。おそらく億単位の再生はされていたとは思うけど。しかし10億ってすごい。ミュージシャン冥利に尽きるなんてレベルの話じゃないね。死んでもいいくらい⁉︎

皆さんもぜひ新しい風を心にも身体にも取り込んでみてください。感動や好き嫌いを超えて、ヒット曲の持つ「酸素」があなたの細胞を活性化させるはず!


↓LINEミュージックの最新ヒット曲


先日、車を運転していたらFMからスピッツの「夏が終わる」が流れて来た。

1993年の作品。シングルではないのと、ブレイク前のアルバムなので知らない人も多いかも知れない。


遠くまでウロコ雲続く…と始まる詩と、クリーントーンのカッティングギターが印象的な、スピッツらしく夏の終わりの雰囲気を見事に表現しているナンバーである。


この曲は学生時代の淡い思い出が蘇る。CDの貸し借りがコミュニケーション手段として力を持っていた時代、あの子から借りたスピッツのCDにこの曲は入っていて、しかも彼女のオススメの曲だった。この曲を聴きながら「あの子は今頃何をしているのだろう?」と想いを募らせた。この曲の雰囲気は、そんなセンチメンタルな気分にさせるには十分過ぎた。


結局、この恋は実ることはなく、水面下でサークルの部長さんと付き合っていたと言うドラマのようなマンガのようなオチが付いていたのだが、一瞬こっちに振り向いてくれたこともあったような無かったような。


FMから偶然流れて来たこの曲に、当時のことが走馬灯のように蘇って来たが、あまりにも時間が経ち過ぎて、自分も変わり過ぎて、懐かしさにリアルさが無くなって来ていることが少し悲しい。どちらかと言うと映画を観ていたかのような感覚に近い。もう僕らの「夏」もとっくのとうに「終わっている」のだろう。

今は今ならではの「夏」もあるので、それを楽しむこととするか。


そんな中、空を見上げるとウロコ雲が!

やっぱり夏の終わりには出て来るのかな。マサムネすごい。

あの子は今どこで何をしているのだろうか?


↓遠くまでウロコ雲続く…



↓YouTubeより


最近ようやく自宅でノーマルな入浴剤を入れらるようになった。子供たちが小さい頃は、敏感肌で「リフレ」のようなスキンケア系の入浴剤しか入れられなかったが、ここ最近ちょくちょくアロマ系や日本の温泉を模した入浴剤を入れられるようになったのである。


今回は「旅の宿」シリーズの「信州白骨」の湯。

長野県の中央に位置する乳白色の温泉とのこと。入浴剤もそれに倣って乳白色。


行ったことはないけど、風呂の電気を消して少し窓を開けて外の空気を吸いながら浸かってみると、何だかちょっとだけその温泉に行っている気分になる。慌ただしいながらマンネリの日常において、こんな風に瞑想的かつ斬新な時間を創出することも楽しく生きていく術かと最近感じる。


そしてせっかくなので、この白骨温泉についてスマホで色々と調べてみる。その中で、「大菩薩峠」という小説にも登場し、一躍有名になったとのエピソードがあった。戦前の小説で、中里介山(かいざん)という作家が30年にも渡って執筆した幕末を舞台にした長編時代小説で、本人が亡くなり結局未完のまま終わったという。


中里介山にも興味が湧き、と言ってもWikipediaレベルだが…。

そんな中で中里は生涯独身を貫いたそうで、その根本の考え方として…

「女遊びは構わない。それは魂を傷つけないから。恋はいけない。魂を傷つけるから。」

だそうで、その背景には幼い頃の暗い家庭の記憶がトラウマになっていたらしい。

男も女も遊びだとしても、真剣になってしまって魂が傷つくこともあると思いますけど、まぁ、お互いが遊びならば確かにそうなのかも知れません。が、すごい防衛心だと思います。それほどに辛いことがあったなのでしょうか…


話は脱線しましたが、最近は些細なことから、深掘りして調べることで、真似事みたいな知的好奇心を満たすことがマイブームです。



ローリングストーンズが18年ぶりにニューアルバムを出すとのこと。


もう80歳だぜ!😵そりゃメンバーも欠けるわな。でもすご過ぎる!

オレも80歳になっても自分の歌を歌ったり、ギター流しやってたいもんだ。ただしカッコよく!


話してる感じは確かに80歳のおじいちゃん…


新曲。全然おじいちゃんの曲じゃない。ストーンズ!


2022年のライブ。カッコ良過ぎて痺れる。こんな80歳いないでしょ!



40歳を過ぎてから、自分の中でエネルギーが減少していくことを感じるようになった。体力と言うより気力。モチベーションとでも言おうか。

元来の性格の「負けず嫌い」も影を潜め、いわゆるハングリー精神やハンター精神も湧きにくくなっていた。


男の更年期かとも思ったけど、それを認めたくない自分もいたり…。でも親しい同年代の友人から同じような悩みを聞いたりして少し安心したり。

とにかく心にハリが無くなっていく自分が苦痛で堪らなかった。


そんな時の解決法として、目標に向かって全力疾走していた頃の自分を思い出すと言うセルフ療法?対策?を最近までよくやっていて、それで何とか奮い立たせて頑張って来た感じがする。


具体的には浪人時代と前職の若手営業マン時代。

とにかく目標に向かって無我夢中で、かなりしんどい思いもしたけど、振り返るとあんなに充実した時代もなかったように思う。それは結果云々だけではなく、全力を尽くしたことへの満足感とそれに伴う自己肯定感の獲得だった気がする。

心折れることも多々あったが、やはり「くっそー!」と立ち向かって行ったし、同じような仲間がいたことも励みになっていて、それもモチベーションになり得た。


その時代の自分をもう一度思い出したくて、当時の場所に行ってみたり、当時聴いていた曲を聴いてみたり、それはノスタルジックに浸ることではなく、自らに「まだまだ俺はやれる!あの頃の自分を思い出せ!」とお尻を叩くような作業だった気がする。実際にそれで何度も立ち上がれた気がするし、ここ数年比較的パワフルに過ごせて結果も残せたように思う。


でも最近思うのだ。もっと「今」の自分でモチベーションを獲得できないものかと。当時の自分と今の自分を比べて、結局は今の自分を無意識に否定することになっていないかと。

そして、そもそも20歳前後の時のような頑張りを目指すこと自体に無理があるのではないかとも思うようになって来た。冷静に考えたら当たり前である。来月47だ。気力体力の衰えは自分が思っている以上なのかも知れない。


それならそうと割り切って、年相応の頑張りを目指していけば良いのではないか?もうあの頃の自分なんて忘れて、とにかく今の自分で生きていくしかないのだろう。例えが良いか悪いか分からないけど、売れなくなったミュージシャンが、またヒット曲を狙って昔みたいな曲を書こうとして苦悩するのではなく、売れなくなったら、だからこそできる自由な音楽を目指していく…そんなこととも被ったりする。


(甲本)ヒロトは、ロックの感動を心に継続させるために今でもよく昔聴いていた原点となるレコードを聴いていると言う。そして、バンドがやりたい一心で、今もバンドができているから「あの頃に戻りたいなんて思ったことは一度もないよ」と言い切る。

自分がやって来たことにも似てるけど、ちょっと何かが違う。ヒロトはいつの自分も肯定して生きているのだ。そして本人もいつも自分を肯定するための言い訳を探していると言う。

それを考えると、自分の今を振り返れば若い時みたいな頑張りができなくて当然なのだ。まずは、そんな自分を肯定することから始めると良い。

妻が「もうオジサンなんだから…」と呆れるように言ったその意味が、最近何となく分かった気がする。


僕の曲である「ピアノマンの逆襲」「全力少年」「覚醒」も根っこには自分を奮い立たせたいと言う願望が秘められてる気がする。

これらの曲も良いけど、ひと休み、肩の力が抜けるような曲も書いて、年相応、自然体な自分で生きていきたいと思う。





ライブ会場としてもお世話になっているブルースギターフォーエバーさんがある横浜元町中華街の近くに、元町商店街と言うところがある。

商店街と言っても昔ながらの商店街ではなく、どちらかと言うとショッピングストリートと言った方がしっくり来る。(この言い方自体が古いか…?)


JR石川町方面から歩いてすぐのところにあり、両サイドにオシャレなお店が立ち並び、商店街を抜けると港が現れる。山下公園やマリンタワー、そして遠くにベイブリッジ、みなみとみらいの風景も見える。元町商店街を歩くとなぜかワクワクするのは、この先に横浜港があると言う期待感のせいかも知れない。そもそもこの地は横浜開港に伴い歴史的に外国人が多く、それに応じた様々な文化も根付いていった場所でもある。何となく外国っぽいのだ。そんな元町のすぐ近くに中華街があるのも何とも面白い。いずれにしても魅力的は街であることには間違いない。


そんな元町に初めて行ったのは、確か小学生の頃。横浜にいとこが住んでいて、叔母が僕たちを連れて行ってくれた時のことを薄らと覚えている。

子供ながら地元の池袋にはないオシャレな雰囲気と歩いた先に広がる横浜港にいたく感動したことは記憶している。(今から思えば「港の見える丘公園)まで連れて行ってくれて、そこからの景色を記憶しているのだろう)


それ以来、元町は憧れの場所として自分の中に根付くのである。でもひとりで東京の自宅から元町などの横浜方面に行くようになるのはさすがに大学生になってからだった気がする。今でこそ家も近くなり度々訪れるが、毎回憧れていた気持ちは変わらずに持てている。


で、本題である。

元町への憧れをイメージした時、子供の頃になぜか当時流れていたプリッツのCMとリンクしていたことを思い出した。CMのロケ場所や歌の感じなど。唯一の手掛かりは「♫エ〜ブリバディ プリッツ!」と言う歌詞とメロディのみ。

いったい何がこのCMと元町をリンクさせたのだろう⁉︎そしてどんなCMだったのか⁉︎

急に知りたくなり早速リサーチしてみた。

今の時代、YouTubeと言う素晴らしいツールがある。


と言うことで、出て来ました!


これこれ!!このイメージ。

と言うか、小学生の頃のCMかと思いきや、1993年って高校生じゃないか⁉︎

改めて観てみると、この通りの感じが元町を連想させたのかもなぁと思う。


そしてバージョン違い。

こっちは大道芸人の外国人の方が出演。歌も外国人の方が歌ってますね。確かにこれも何か元町感がある。


そしてもうひとつ。これがおそらく1番初めのバージョンかと思う。1992年。

が!何より驚いたのは、これは「東京パフォーマンスドール」の「放課後はいつもパーティー」と言う歌だったと言うこと。単なるCM用の歌じゃなかったんだ!「東京パフォーマンスドール」と言えば、篠原涼子や穴井ゆうこ、市井由理(「DAYONE」のYURIです)が所属していたアイドルグループ。CMにも確かに出てる。

しかもサビでちゃんと「プリッツ」と歌詞に入っていることから、CM用に作られたシングル曲だと思われ…。心が弾む素敵なメロディですよね。


ちなみに制作陣は…

作詞:RICHY BRIAN/森 雪之丞
作曲:馬飼野 康二

編曲 : 佐久間正英


大御所過ぎる…。作詞家、作曲家共にすごい!

そして驚きました。編曲は佐久間さん!ボウイやGLAY、ジュディマリなどをプロデュースされたすごい方。残念ながら2014年に61歳の若さで亡くなったしまいましたが、たった数十秒のCMソングにも関わらず、何か垢抜けたものを感じたのは佐久間さんの力も大きいかも知れない。


やっぱり小さい頃に体験した感動って大切だし、それを自分なりに歌や映像に重ね合わせて、何かの折にその気持ちを引き出せるようにしているのかなぁとも思った。


色々分かってスッキリした。今度はプリッツ片手に元町商店街を歩いてみるかなぁ(笑)

やっぱり横浜好きだな〜

久しぶりのブログです。みなさん、お元気ですか?

活動詳細についてはFacebookにて友達承認した方に限り公開しているため、こちらのブログの用途がぼやけてしまい、しばらく更新も滞ってしまいました。


なので、ここではFacebookX(旧Twitter)では書けないような(?)、音楽に対する考え方や想い、これまでの経験などを書いてみようかと思います。

残すことで自分にとっての備忘録にもなるかなと。

今回は自分が本当にやりたかったことに気付かされてしまった話です。


自分がソロで弾き語りを始めたのは、大学卒業後、社会人になってから。

それまでもバンドでボーカルやったり、ユニットで歌ったりしていましたが、当時はソロでやるなんて全く考えていなかったし、そんな自信も度胸もなかった。

ましてやソロアーティストとしてプロになる夢を目指すなんてことは微塵も考えたことなく、唯一夢見たことは「職業作曲家」。別に自分がステージ立たなくても、詞を書かなくてもアレンジしなくても、とにかくメロディでどこまで勝負できるかと言う気持ちはあった。


振り返ってみると、大学に入った時に、自分の曲を歌ってくれるボーカリストをずっと探していた。

でも、こんなことを言うとおこがましいけど「この人の歌なら合う!」と言う人が見つからず、いいなと思っても人間的に合わないな、と言うことも多く、それなら取り急ぎ自分で歌うしかないか、音程も外れてないしと、まぁ本当に軽い気持ちで歌い始めたのだ。

自分で歌うなら自分で書いた詞の方が良いし、誰かに頼んで自分が思ってもないような内容を歌うのは絶対嫌だったので、書き始めたら、これまもまた何となく書けてしまった。でも、これもあくまでもバンド時代の話。


その後、社会人になると仲間とも時間も環境も合わなくなってくる。

このまま何もしなければ本当に何もしなくなると思い、意を決して弾き語りの世界に飛び込んだのが2005年。

もうずいぶん前の話だ。

初めての場所は当時の自宅から近かった日吉NAP。今も白楽に移転して継続されていると聞く。


当時、出演者の人たちは同年代も多く、プロアーティストを目指して尖っていた人も多かったし、クオリティも高く真剣な人も多かった。

そんな中で、転職も結婚もして、ある種、落ち着いた自分ような人間は、その人たちからすれば「お気楽な趣味程度」にしか見えなかったに違いない。

いわゆるサークルの延長線上。それも決して悪くないけれど、当時の出演者陣を振り返ると浮いた存在だった気がするし、実際に居心地の悪さも感じていた。


とはいえ、それしか活動スタイルはない訳で、当初は無謀としか思えなかった弾き語り活動も、いつしかそれが当たり前になってしまっていた。

そしてそのスタイルを20年近く続けていると、疑問も持たなくなって来る。


そんな時、つい最近の話なのだが、いつも自分に色々なアドバイスをくれる神田の音楽バーのマスターから、それなりの指摘をもらってしまった。

ある程度の関係性が築けた証拠かも知れないが、なかなかハッキリ言いますな〜(苦笑)くらいのレベルであった。

まずは、自分の作品は綺麗にまとまり過ぎていて響いて来ないと。

そして、メロディは悪くないが男性的ではないので女性が歌う方良く、ゲンダユウとして歌うのは似合ってないのではないか?という提言。

詞についてもメッセージを乗せにくいポップで明るいメロディで、それも悪くないが、どれも同じ曲に聴こえてゲンダユウの想いが見えて来ないとも言われてしまった。曲のジャンルに幅を持たせるべきとも言っていた。

詞の内容も、もっとストレートに表現すれば良いところを遠回しに言っていて、それがしみったれた感じになっているいわゆるもどかしい感じになっているとも。


音楽をやっている以上、色々な感想を持たれるのは仕方ないし、それを言わない人が殆どな中で、ある意味貴重な指摘や助言だったと思うけど、「そりゃ、そうだよな」と思っている自分もいたりした。

どうしてそう思ってしまったかと言うと、話は元に戻るが、スタートの段階で、弾き語りスタイルが「消去法」で選んだものだからだ。

もっと言えば、歌うこと、詞を書くことも「消去法」で選んでいる。他に適する人がいないのでそれなら自分で!と言う経緯である。

マスターもよく見破るもんだと感心したけど、確かに、自分の根幹は「メロディを作りたい」なのである。

なので、ライブを通じて自分の想いやメッセージを伝えたい!と言うとても熱い想いがあるかと言われればそれ以上に作品の創作に対する情熱が上回るのは認めざるを得ない。


一時期、JPOPの楽曲コンペに挑戦していた時期もあったが、当時の家庭の状況はそれどころではなく、それに加えDAWが出てきた頃で、デモとして編曲やミックスも完成に近い形での提出を求められていたので、一週間に3曲のノルマをこなすことは無理だった。(最近では、昔のように弾き語り形式でのデモでも募集所も増えているようだが)

でも振り返ると、これが自分の最も大きな目標であり願いだったのかなと気付かされたりする。

ただ、めでたく採用されても、そのアーティストに会えるわけでも、レコーディグを見学できるわけでも、ライブにお邪魔できるだけでもないようだし、報酬についても、大ヒット連発ならともかく、それで食べていけるようなものでもないことも分かっていたので、それなら、アマチュアとしてライブ活動を通じて色んな方と出会ったりする方が自分にとってプラスなんだろうなとも思って、曲作り以上にライブ活動を優先させた経緯があった。

とは言え、やはり自分の曲が採用されて、アーティストの楽曲として世に出て欲しいと言う願いは心の中にずっと眠ったままなのかな、とも今回の件で感じた。


とは言え、今の弾き語り活動をやめるつもりはないし、これからも曲を書いて詞を付けて自分で歌うし、昔の曲も披露することになるだろうけど、ステージ映えするアーティスト、心に響く歌を歌うシンガーソングライターとして必要以上に自己研鑽したり、その結果、進歩がなくて気落ちしたりすることは違うのかなと改めて思うようになった。

もちろんステージに立つ以上は最大限の努力はするけれど、自分の能力的に限界もあるし、

そもそも本当に目指すべきところがそこではないと言うことが自分で分かってしまったのだ。


かと言って、メロディメーカーとして絶大な自信に満ちていると言うわけではなく、曲作りはある種、努力ではなく、ふっと湧いてきた(降りてくるとも言う)ものだったり、空中に浮いているものを逃さずワッ!と掴むようなイメージなので、あまり「俺、曲作れてすごいっしょ!?」みたいな感覚もない。

その偶然の出会いが楽しいし、自分が中学生の頃に聴きたかったようなメロディを探している単純にそんな感覚なのだ。


自分の曲がどう活かせるか分からないけど、生み出すプロセスにおいては間違いなく「ゾーン」に入れるし、いわゆる「フロー状態」になれるので、そんな気分を味わいたくて作っている面もある。

このモードに入ってしまうと、結構周囲の人は困るのだろうけど(苦笑)


なかなか自分でも自分の本心や本音はわからないものだ。

でも、言動からそれは滲み出るものだろうし、鋭い人ならそれを見破る。

今回のケースはまさにそうだったのかも知れない。

まだ新卒2年目くらいの頃、前職で飛び込み営業をやっていた時、とある相手の社長さんから「あなた、この仕事本当にやりたくてやってる?そんな感じしないよ。かわいそうに。」と言われて、あまりに図星で一日中落ち込んだことがあった。

「あぁ、どんなに装ってもわかる人にはわかるんだ」と言う見破られたショックとでも言おうか。何かそんなことも思い出した。

やはり人は自分には嘘は付けないものなのだろう。


長文失礼しました。でも何だか大事なことのような気がする。

曲作りがいつか報われるよう、そして納得できる活動になるよう、またその創作プロセスからも満足感を得て、且つ誰かのお役に立てるよう模索していきたいと思います。残された時間も多くはないし、でも焦らず、希望の光を信じて進んでいきたいものです。


まぁ、とにかく楽しくやれれば一番なんですよね。

ご無沙汰しています。
最近は生カラオケオープンマイクを企画させてもらってます。生演奏で歌う機会もなかなか無く楽しかった♫と好評です。
5〜6名参加で2時間でお一人3曲は歌えると思います。お一人でいらっしゃる方が殆どなので安心です。予約はお店へお電話してください😊
よろしくお願いします🤲