世界一有名な壁。
でも実物がそのまま残っている場所はそんなにないらしい。
それがベルリンの壁記録センターです。
今回理解したのは、壁そのものというより、付随して緩衝地帯があり、監視塔があり、そのあいだにマキビシのような尖った金属が置かれ、番犬が置かれ、という徹底した監視体制があったということ。
緩衝地帯があるというのは、壁を扱った映画を見た人なら知ってるかもね。本当に怖いのは壁を乗り越えることじゃなく、その向こうの空白地帯を超えることなのだ。そこには隠れる場所がないから。
緩衝地帯は緑地になっていて、中に円形の教会ができている。
よそと同じく、この鉄柱は壁を表している。
たくさんの人が芝生を歩き回っている。
道路の対岸の塔から実際の壁を見下ろせる。とはいえ、ここも200メートルほどしかなくなっているけど。実物を残すって本当難しい。こちらが西ドイツ、向こうが東ドイツ。
地図で見ると思うのだけど、博物館島もジャンダルメンマルクともアレクサンダー広場、テレビ塔も、歴史ある地区はほとんど東なのだった。西にあるのってティアーガルテンと動物園、シャルロッテンブルク宮殿くらいか。
分割中はペルガモンとか見に行けなかったのか・・・。まあ、西ベルリンと西ドイツの人は東に行くことはできたみたいだけど。
そして、ベルリン南部の壁の軌跡は曲がりくねっていて非常に分かりにくい。
西ドイツ側の歩道のすぐ横に壁がある。
思ったほど高くない。2メートルくらいか。しかしこの壁の意味は高さではなかった。
何てこたないコンクリ壁ですが、世界遺産です。
緩衝地帯の解説。
この塔の下に資料館がある。
分割されたベルリン全体図。私は生まれた時からドイツは二つだった。中学校の社会科の地図でもドイツは東西だった。西ドイツの首都はボンと教えられた。
今ボンって・・・あまり聞かないな。
東ドイツから西ドイツへの人口流出。壁ができる原因となった。
ケネディ・フルシチョフのウィーン会談。ここでベルリンのアクセス権などについてもめた。
61年、壁に抗議するデモの群衆。旗には西では戦車でなく紙で人を止める(直訳)、と書いてある。軍事力でなく情報力を使えとの抗議か。ドイツ語が分からないのでこういう時悲しい。
とにかく市民からも反対があったがわずか2日間で壁は実現された。
壁というのがとにかく民主主義と自由主義の文字通り障壁となっていることがよくわかる。
28年で壁は崩壊したけれど、いまだに東西ドイツの溝は問題になっている。後遺症は深い。