もう終わりだね 君が小さく見える



 言わずと知れたオフコースの『さよなら』の歌いだしである。このフレーズを初めて耳にしたときの記憶はもうない。きっと幼いころだったろうと想像はつくものの、はっきりしない。わからないのにそれだけじゃない。この短い言葉に違和感を覚えたのはいつからだっただろうか。

 その感覚を一言で表現するならば、あんまりじゃないの、ということである。

 小さく見えるなんて理由でフラれるなんて、あんまりだ。それってつまり、僕のなかで君の存在が小さくなってしまった、ってことじゃないか。他の解釈もあるだろうけど、どちらにせよこの女性は結構なことを言われているのは間違いない。

 と、正直ここまでならば、あまりにもひどいと感じるものの、そういう別れを描いた曲なのだと納得できる。しかし。しかし、である。



 僕は思わず君を抱きしめたくなる



 とつづくではないか! ボロクソ言っといてなんだ、それは。ここで違和感は大きく膨れあがる。解釈を推し進めるならば、存在は小さくなったもののいざ別れるとなると惜しくなった、となってしまう。それならそれでいい。けれど、そうであるにしても順番がおかしいように感じる。つまり。


 私は泣かないから このままひとりにして 君の頬を涙が 流れては落ちる



 歌詞はこうつづいていくのだが、この描写がでてくるのがちょっと遅いのである。こういうことがあって惜しくなる感情、「思わず抱きしめたくなる」が生じるのはまだわかる。けれど、男性が「もう終わりだね」と思ってから、女性の反応が表れるより先に「抱きしめたくなる」のである。でもそれって、全然終わりじゃない。

 そこで考えを少し修正すると、存在は小さくなったから別れるけれど、嫌いになったわけではないから、別れに傷ついてほしくない、なぐさめてあげたい、という気持ちが「思わず君を抱きしめたくなる」ということである解釈が生まれる。

 正直な話、自分のこの曲の聴きかたはこれだった。これで一応辻褄は合う。けれど心がすっきりと晴れないのは、男性の気持ちがもうあまりなさそうな点である。だって、「もう終わりだね 君が小さく見える」だもん。はっきりしないよりはばっさり切ってくれたほうがいいという意見もわかる。でもこの男性、別れる気まんまんでありながら、2番でおそろしいことを始める。


 僕が照れるから 誰も見ていない道を 寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった



 まさかの回想。それも女性が自分のことをすごく好きだという回想。演奏と歌声でなんか切なく聴こえるけど、たしかに女性側の目線になれば切なく感じるけど、なんとも。男性はもうあまり気がないのにどういうつもり、と思ってしまう。そのくらい自分に一途な気持ちを寄せてくる女性に、一方的に別れを告げなくてはいけないのは心が痛い、ということかもしれないが……。

 というふうに、どこかモヤが残る心持ちでいた。たしかに実際の別れとはこんなものかもしれない。リアルといえばリアル。でも、雰囲気にだまされているような気持ちになるのも事実だ。この曲調と歌なら、もうちょっと切なさが欲しい。具体的に言ってしまうなら、男性の女性への気持ちに強さが欲しい。そういった自分勝手な願望が、冒頭の「もう終わりだね 君が小さく見える」で断ち切られてしまうのである。

 ここで、である。

 自分がひらめいたのは、この「もう終わりだね」が女性の言葉ではないか、ということ。叙述トリックに気づいたような衝撃だった。もしそうであるなら、自分が感じた違和感やモヤが、すっきりと晴れてしまう。

 つまり、別れ話のきれはしだと思っていた冒頭のフレーズの時点で、すでに別れ話が終わっているのである。男性が女性を「小さく見える」といったのは、別れの理由ではなく、「もう終わりだね」とつぶやいた女性の姿がかよわく見えたということ。だから「抱きしめたく」なったのであって、女性の反応より先にそういう感情が生じたのではなく、冒頭のフレーズこそが、女性の反応だったのである。

 そう考えることで見えてくるのは、男性もまだ女性のことを愛している可能性。そこにはもう「終わりだね 君が小さく見える」と考えた人物は存在しない。回想だって、自分のことを一方的に好きな相手の回想とは限らない。自分が好きで仕方ない相手との最高の思い出、二度と訪れることのない幸福な日々の思い出を回想しているだけであるように聴こえてくる。別れの理由は相手の存在が小さくなったからではなく、お互いに愛し合っていながら、どうしてもそうならなくてはいけない状況だから、と想像がふくらむ。僕らは自由だと話していたにもかかわらず。別れの日のことなんて思いもしないで。冒頭の時点でその話がすでに終わってしまっているから、内容をうかがい知ることはできないけれども。

 歌詞の解釈は自由であるし、そんなんじゃないと感じる人もいるかもしれない。また、初聴から気づいてた人がいたり、ファンのあいだでは周知の事実である可能性もある。でも、自分にとってはじめのひとフレーズを発したのが誰かで詞世界が違って見えたのは衝撃的だったので、ここに記すことにする。誰か同じことを語っている人がいるのではないかと怖くて、詳しく検索をかけないままに。

カートコバーンの症例からかんがみるに、中二病は、死にいたる病。

 映画を観たり小説を読んだりするのは、年をとって死ぬ準備をするためじゃないかと感じるときがある。

 思えば、準備は先を見据える行為だ。突然はなしを変えれば、最近日本サッカー代表は準備という言葉が好きだ。インタビューのなかで出てこないほうがめずらしいくらいだ。短いものであったとしてもだ。そのことに気づいたのは、本田圭祐選手が多用するからだ。そしてそのうち、みんなが多用するようになった印象だ。つまり、この言葉の流行源は本田選手と睨んでるわけだ。

なにかを得た者や得ようとしている者は、それを得ていない者や得ようとしない者を許さない。

はじめはそうでもないのに、段々とそうなる。

彼らは忘れていくのだ。かつて自分もそうだったことを、時間とともに。

誇らず、驕らず、見せびらかさずに、得ていることを大切に思えば、それでいいはずなのに。


ときに成果は、人を窮屈にする。

ときに成果は、人を冷徹にする。

ときに成果は、人を潔癖にする。

ときに成果は、人を。


それでも人は成果を求めねばならない。

変態を要求する生命を否定してはならない。

成果も生命も否定せずにいることは、整合性を欠いた矛盾におちいるだろうか。

矛盾に浮遊したままいることは許されない。

でも、誰に?


説明のできないものがまた蓄積していく。

身体のなかに、焼け残った灰が積もるように。

残された空間はもうほとんどない気がしているけれど、

そんな思いなど、ずっとずっとはるか以前から引きずってる気がしている。

発想は平凡に宇宙へ飛躍し、人へ還るすべを知らない。


あるのはただ、しかし、たしかな脈絡の実感である。

友人にいま、苦境に立たされている者がいる。

そういう状況におちいるおそれのある者、つまり人類全員がそうであるように、彼には落ち度があった。

あんな行動とらなければ、ああならないのに。

たやすく挙げることのできる失敗が、はっきりと存在した。

それを自覚しているからこそ、よけいに苦境の深いほうへ追いやられてしまっているんじゃないかと、

連絡のとることのできなくなった彼の心情を勝手に想像する。


「でもあれですよね」


共通の友人は口にする。


「自分がああいう状況になったら、自殺しますよ」


きっと、言葉の選択を、あやまった。

苦境の彼の心情を思うと、それほどつらかろうという意味で、

それならばそのまま口に出せばよかったのだ。

なのに言葉は時として勝手に裏返る。

またひとつ、遣ってはいけない言葉を憶えた。それを心にとどめておこう。

そうでなければ、その言葉は、追い詰められた人に「死ね」と言ってしまう。