東海大学農学部の長野教授によって、今年8月に撮影されたタイ王国でわずかに生育する貴重なミズゴケの写真です。場所はドイインタノンという国立公園です(ドイはタイ語で山という意味です)。
ドイインタノン国立公園は、標高が高く、霧が多いので、夏でもここだけはいつでも涼しい場所のようです。タイ最高峰のインタノン山(標高2565m)を中心とした約480平方キロメートルにもおよぶ広大な国立公園です。
Thai Forest Bookingより
東海大学農学部の長野教授によって、今年8月に撮影されたタイ王国でわずかに生育する貴重なミズゴケの写真です。場所はドイインタノンという国立公園です(ドイはタイ語で山という意味です)。
ドイインタノン国立公園は、標高が高く、霧が多いので、夏でもここだけはいつでも涼しい場所のようです。タイ最高峰のインタノン山(標高2565m)を中心とした約480平方キロメートルにもおよぶ広大な国立公園です。
Thai Forest Bookingより
これから「石橋探訪」というコーナーで、10年ほど前から石橋の美しさに魅せられて、撮り集めた写真の紹介を順次していきます。
第1回は熊本県上益城郡山都町にある通潤橋(つうじゅんきょう)です。熊本では一番有名な石橋です。
水の便が悪く、水不足に悩んでいた白糸台地に住む民衆を救うために造られた日本最大級の石造りアーチ水道橋で、昭和35年に国の重要文化財に指定されています。工事を担当したのは「肥後の石工」と呼ばれる名工たちでした。
架橋は安政元年(1854年)
橋の長さ 75.6m
橋の幅 6.3m
橋の高さ 20.2m
石管の長さ 126.9m
通潤橋01(2003/06/08)
熊本県宇土市(うとし)にある轟水源(とどろきすいげん)は日本最古の現役上水道です。
宇土半島は丘陵が主で緑川の河口部の近くでは海水が逆流して灌漑用水が不足していました。熊本藩の支藩である宇土藩細川行孝公が宇土入部の後、轟水源から4.8kmの城下町の各屋敷まで陶器
の管で引き水を行い、日本で初めての本格的な水道を引きました。
100年後、細川興文公の時に強度を増すため、現在の馬門石(【まかどいし】ピンク色をした石で、宇土市網津町馬門地方にしか見られない珍しい石)の用水路に変えられました。そして、今も轟泉(ごうせん)簡易水道組合により利用されています。驚くべきことです!
轟水源
宇土市の船場橋(せんばばし)は安永9年(1780年)に造られたといわれています。壁石は安山岩、高欄には馬門石が使われています。
船場橋
南阿蘇村の小さな村落の小さな交差点で、石の道しるべを見つけました。調べてみると一般の方がコツコツと旅人のために信じられない貢献をされていたことがわかりました。この道しるべはその一つだったのです。
広いすすきの原を歩いてきた旅人が足を止めました。わかれ道のところにカッチン、カッチンと一心に石を刻んでいる人がいます。
「あ、あなたですか。あちこちに道しるべを立ててくださっているという方は」と、旅人がたずねますと、
「道にまよう人がないようにと思ってやっていますが、仕事の合間のことで、なかなかはかどりません」と、答えたのは、甲斐有雄という人でした。
有雄は、文政12年(1829年)、熊本県の阿蘇郡野尻村(今の高森町)に生まれました。
そのころ野尻村は、旅人の行ききも多くて栄えた村でした。まわりの野原は広々として、村々をつなぐ道がいくつも通っていました。しかし、その細い道には、道しるべがありません。その上、夏は背の高い草がしげります。冬は雪がつもって、畑の道もわからなくなります。それで、行き倒れになってしまう人もありました。
有雄は、腕の良い石工になりました。石を刻む仕事をしながら、こう思いました。 「そうだ、この石工のうでで野原に道を知らせるための石をたてよう。雨がふっても、風がふいても、いつまでも残る石の道しるべを立てるのだ。そうすると、道に迷う人が助かるぞ」
有雄が刻んだ道しるべは、野尻村だけでなく、近くの村や町にも、また、宮崎県や大分県にも立てられ、その数は1824にもなりました。
熊本県教育委員会中学校道徳教育郷土資料「くまもとの心」より一部抜粋
左 みちのうえ 甲有
1268号
南阿蘇村の隣の高森町にある史跡で、お地蔵様が6体並ぶのではなく、塔の六面にお地蔵様が書き込まれているものです。
説明には、「文明年間(1469~1487年)に建立されたもので当時の日本では天下をあげて応仁の乱の渦中にあり、九州の各守護大名もその戦雲の中に紛れていた。そのような不幸な時代、村の庶民達は、よりよき平和な時代を夢に託しながらこの六地蔵を建立したものだろう」とあります。
六地蔵は、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものだそうです。
応仁の乱は、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とが、1467(応仁1)年から11年間、京都を中心に続けられた戦乱でした。
色見六地蔵
民謡「おてもやん」は熊本の代表的な民謡です。「おても」というのは若い女性の通称らしく(私は知りませんでした)、明治の終わりごろに実在した人物ともいわれています。
歌詞の内容をあらためて標準語訳すると、あまり感心できる内容ではないことがわかります。明治という時代なのでしょうか・・・。
おてもやん あんたこのごろ嫁人りしたではないかいな
嫁人りしたこたしたぱってん
ご亭どんがぐしゃっぺだるけん まあだ盃ゃせんだった
村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝(きも)入りどん
あん人達のおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい
川端町(かわばたまち)つぁんきゃあめぐろい
春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり
ピーチクパーチクひばりの子 げんばくなすびのいがいがどん
おてもさん あなたは 最近結婚したのではないですか
はい、結婚したのはしたのですが
ただ、婿殿が天然痘のあとが残っているので、まだ三々九度の杯はしていません
村の役付きさんや火消しの頭や仲人さんなど、いろんな世話人の人たちがいらっしゃるので、後はうまくとりなしてくれるでしょう
川端町のほうにまわって歩きましょう(川端町は春日より繁華街に近い地域。当時、春日はかぼちゃの産地。かぼちゃがその尻であるヘタの反対側に萎れて裏返しになったような大きな花をくっつけてコロコロ転がっている様子)
かぼちゃ男たちが裾を引っ張ったりして、私はモテモテです 私の人生は今が花盛り
春にさえずる雲雀の子のような浮かれっぱなしの男や野暮ったいイガグリ男たちは私の趣味ではありません(玄白なすびとは蘭学者杉田玄白が広めた茄子)
熊本国府高等学校パソコン同好会より
明神池は旧白水村のほぼ中央に位置する湧水池で、広さ752㎡の池のいたるところから清水が噴き出しています。
この湧水地には明神池の産神を奉る群塚社といわれる神社があり、ここの水は「誕生水」といわれ飲むと安産に効果があるとされています。
天正年間、この地区には吉田城という城があり、その城主には子がありませんでした。そこで、この水源で身を清め、境内にある誕生石に願いをかけたところ、子宝に恵まれました。
しかし、産後の肥立ちが思わしくなく乳が足りず、日に日に痩せ細る子どもたちに困り果てた奥方は、境内にあるイチョウの木に、乳房のように垂れ下がっている気根をあり、それを撫でました。するとその日から病気も回復し、乳の出も良くなったそうです。それ以来、現在もなお、女性の参拝する信仰が残っています。
また、日本最後の内戦である明治10年の西南の役で、会津藩家老佐川官兵衛は当地区長門屋の座敷にて南郷有志隊と薩摩軍に対する作戦会議を行い、明神池の水で身を清め、群塚社に必勝を祈願した事実が残されています。(境内説明より抜粋)