五つ目の石橋は熊本県玉名郡の三加和町(みかわまち)の上板楠神社(かみいたくすじんじゃ)の眼鏡橋です。それは上板楠神社(三霊神社)の裏参道にかかる小さな橋です。
小型ながら頑丈に造られています。橋の大きさに比べて欄干がとりわけ大きいことが、この橋を重厚で個性的なものにしています。
架橋は文政から天保(1818~43年)ころ
橋の長さ 3.6m
橋の幅 1.1m
橋の高さ 1.5m
加藤神社は明治4年(1871年)の神仏分離令により、本妙寺から移されて、熊本城内の宇土櫓(うとやぐら)前に創建された神社です。主祭神は、熊本の基礎を築いた加藤清正公です。
清正公(1562~1611年)は、戦国時代には智仁勇を兼備した武将として、また、日本三名城・日本三堅城の一つである熊本城の築城で有名です。また、富国安民の国づくり政策を推し進め、肥後北半国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになりました。高潔な人格者で、今も熊本県民に愛される領主様です。
余談ですが、加藤家の家紋「蛇の目紋」は、シンプルなのに力強いインパクトがあり、個人的に好きな家紋の一つです。
第3回は熊本県荒尾市にある岩本眼鏡橋です。ここは江江戸時代には肥後と筑後の藩境に当たり、藩の関所が置かれた交通の要衝であったようです。
関川は川幅が広く岸が低いので一つのアーチにすると橋の高さを異常に大きくするしかありません。二つのアーチにすれば川の中央に基礎がくるので川の流れが阻まれ、橋の根元が洗われて危険でした。そこで、橋脚を保護するための水切りや上流の水勢を規制するなど橋を守るための工夫がなされたうえで、眼鏡橋となったようです。
架橋は明治初期
橋の長さ 32.8m
橋の幅 3.4m
橋の高さ 7.4m
9月1日に長崎書店のイベントコーナーで面白い取り組みを知りました。遠山昇司(1984年熊本県八代市生まれ)という方が、企画・脚本・監督・プロデューサーの4役をされ、映画製作をするというものです。
画期的なのは、映画好きな一般の人からソーシャルファンドという形で映画製作の資金を集め、特典として映画限定のプレミアムギフトのプレゼントがあるというところです。普通の映画好き、熊本好きの参画と共有を実現した「熊本からロードムービーが走り出す、そのための夢ファンド」とでもいいましょうか。素晴らしい発想だと思います。
コースは、5,000円のベーシックコース、10,000円のクリエイティブコース、100,000円のアーティストコース、250,000円のエグゼクティブコースの4コースです。
私はクリエイティブコースを申し込みました。遠山さんとメールのやり取りもさせていただきましたが、熊本発のこの映画、いまから本当に楽しみです。
詳しい内容は「NOT LONG AT NIGHT(ノット ロング アット ナイト_夜はながくない)」のWebサイトをご覧ください。
≪ワンコインで晴耕雨読≫
第25回
「もの忘れの達人たち」
トム・フリードマン(著)
今回は、この本の中の230以上ある達人たちの逸話の中で、とくに私が面白いと思った2つをご紹介します。
その1
イギリスのセシル主教は、セレモニーに出席するため列車に乗ったが、切符をなくしてしまった。すると検札に来た車掌が言った。
「かまいませんよ。私どもはあなたを存じ上げていますから」
「それはご親切に。でも、私のほうは切符がないと行き先がわからないのですよ」
その2
俳優のマシューズ(1869~1960)は、ある劇に出演中、電話をする場面で受話器を取り上げたとたん、頭の中が真っ白になってしまった。しかもそれは決定的に重要なセリフだった。やけくそになったマシューズはそばの俳優に言った。
「きみにだよ」
おまけ
私の妻も達人です。
先日もこんなことを興奮して話していました。それは郊外型のショッピングセンターの大型立体駐車場でのこと、いつもどこに停めたか忘れてしまうので、その日は、「赤の4、赤の4、赤の4、よし!」と指さし確認をしたうえで、買い物をして戻ってみると、「え~っ!?」そこに車がない。
10分以上探しても見つからない。まさかと思いながら、ほかの色も探してみると、緑の4だったそうです。指さし確認までした55歳の愛すべき妻は、ちょっとしたショックを受けていました(笑)

江戸時代の相撲界に熊本県宇土市出身の名横綱がいました。それは「不知火型土俵入り」の創始者、第8代横綱の不知火諾右衛門(しらぬひだくえもん)です。享和元年(1801年)栗崎町に生まれました。
その諾右衛門の弟子となったのが、不知火光右衛門(しらぬひこうえもん)で、第11代横綱になりました。文政8年(1825年)生まれで、陣内村(現在の南阿蘇村の隣町である大津町)の出身です。
彼の土俵入りは、先代が創始した不知火型をさらに華麗にしたもので巧妙を極め、「白鶴の翼を張れるがごとし」と言われたそうです。
色白でかなりの美男子であったといわれていますが、錦絵は確かにそうですが写真を見れば・・・。
それにしてもこの時代、熊本出身の横綱が二人もいたことにビックリです。
第2回は熊本県下益城郡美里町にある霊台橋(れいたいきょう)です。緑川本流の最大の難所、船津峡に架けられた日本第3位の単一アーチ式石橋です。
昭和41年、上流に現在の鉄橋が架けられるまでは、この石橋をバスやトラックが通行していました。
霊台橋は、全国的には「肥後の石工」として有名な「種山石工(たねやまいしく)」が手がけた橋です。種山村は現在の熊本県八代市東陽町です。
種山石工は前回紹介した通潤橋など江戸時代の壮大な目鑑橋や、県南地域の大小の目鑑橋を手がけた技術者集団で、江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、県内はもとより県外にも、通路や通水のための優れた目鑑橋を架けました。
架橋は弘化4年(1847年)
橋の長さ 89.9m
橋の幅 5.4m
橋の高さ 16.0m