「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。」
箴言22章1-8節
人生、人の日々というのは何か機械的なものではないんですよね。ぐうぜんできたいのちではなく、授かったいのちだから。誰から授かった?神様からです。私たちのからだを組み立ててくださった神様からです。冷静に考えればそのスタートを考えると、組み立てる誰かがいなければこんなに素晴らしいからだ、ひとりひとり違う姿にはならないですよね。神様がご自身に似せてつくられ、たましいを与えてくださった。どうでもいいものではなく、神様の霊を吹き込んで生きたものとしてくださった。その父なる神様が私たちを今日も支え導いている、神様の愛が注がれて。あなたのためになら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が、この愛が、そのご計画が今日もあなたに注がれている。あなたはこの神様にどれだけ期待して歩むだろうか。
ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られた箴言・知恵のことばで、これをソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はある時だけ関わって何かしてくださる、とかそういうものではなく、私たちを我が子と呼び、その我が子に良いもので満たしたい、幸せになってほしい、その思いを込めてすべてのものを注がれているわけですね。蔑んだり、気にくわなければ捨てる、とかそういう希薄のものではなく、とこしえに神様の恵みを注ごう、だからわたしたちのもとに帰っておいで、そんな神様の意思が感じられますね。
そんな神様は、この知恵・愛をソロモン、そして彼を通して私たちに知らせるべく、「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。
名声が素晴らしいというと聖書に詳しい方は違和感を覚えるかもしれませんが、まずイエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」と教えられています。人の名声を受けるために善行を行ったり、形だけいいことばを語ったり、そういうことについて注意されています。まあ実際、当時私はこれだけたくさん祈っているんだ、と御名に認められるために、大通りで大声で祈っている人がいたり、人が大勢いるところで施しをして、おおこの人は素晴らしい、と評判をあげようとしていましたしね。神様からの栄誉よりも、人の栄誉を愛する、それが人の常なのか。あ、もちろん困っている人を助けること、施しをすることを否定しているわけではありませんよ?ここまで箴言の中でも見てきましたが、困っている人にその手を閉ざしてはいけないこと、また律法を見ても、困っている人を助けるように、という事が具体的にたくさん書いてあります。
じゃあこの「名声は多くの富よりも望ましい」ということばはどういうことなのか。矛盾しないのか?まあ一つは単純に、お金儲けとかそういう事よりも、誰かを助ける、困っている人に手を差し伸べるなど、そうしたことの方が大事、というのが一つでしょう。それは神様の私達への思いにもかなっていますし。
もう一つは、この名声ということばの本質的な意味に関わってくるのですが、このことばは「信頼される名、誠実な人格、人から尊敬される評判」という意味を持つ言葉です。ただ有名であるというよりも、その人の名前が呼ばれた時に思い起こされる人柄や行い、そうしたものを指すようです。たとえば正直者であるとか、約束を守る、親切であるとか。どんなにお金があろうとも、その人の本質が悪ければどれだけお金を持っていようが評価などされない。逆に、神様を恐れ、隣人を愛する歩み、御心に叶う歩みというのは、名声を得なくとも、神様はそのあなたの歩みを喜び、先程のイエス様のことばと合わせるなら、そのあなたに報いてくださる。もっといろんなことをイエス様は任せてくださるのです。そのあなたを通してさらにすばらしいことを。そんなふうに神様の御業が広がっていくなら、祝福が溢れるなら、素晴らしいと思いませんか?自分の名声のために見せかけのような歩みをするのではなく、形だけいいことをして実質が伴っていない歩みをするのでもなく、神様の御心に叶う歩みをする、その中に神様の名が、御業が、祝福が広がっていくなら。この世の金銀に勝る神様の喜びがそこに広がるのですから。
ある意味では人の名声なんてなくてもいい。それによって自分が高慢になって今までしていたことをやめるくらいなら。むしろ純粋に神様の愛に生きる、神様の愛をもって互いに仕え合う、隣人を愛する、これを忘れてはいけませんね。人からほめられるよりも、神様があなたを喜ばれるならそれ以上のある意味では名声はないのではないでしょうか。私たち、私、あなたの名がほめたたえられても、そんなものは何にもならない。しかし神様の名がほめたたえられるという事は、そこに神様の御業が現わされているという事ではありませんか。これほど素晴らしいことはありません。
この名声の話に続けて、「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」と語られていますが、富む者と貧しい者とは互いに出会う、とありますが、神様が貧しい者、困っている人、霊的に貧しくなって辛くなっている人に、そうして富む人、霊的に富む人、そうした人と出会わせてくださるわけです。その中で神様の名があがめられるわけですね、神様がその人を通して働かれることによって。すべてを創られた神様、あなたを、あなたの周りにいる人をつくられた神様はそうして、全てを治めてくださる、守ってくださる、全ての必要を満たして下さるのです。神様の超奇跡的なことを通して守られることもありますが、しかしあなたを通して働かれることもあるのです。その時、自分の名声だけを求めて、この人を助けてもな、なんて言っている場合ではないですね。そこに神様が働かれるなら、そこには神様の素晴らしさが現わされる。神様がその何かをつくりだされるのです。
それはただの金銭的な富や貧しさだけではなく、人間関係的なものもそうでしょう。誰かその関係が貧しくなって困っている時、自分の満足や、主張を押し付けるのではなく、神様の愛をもってその人たちを助ける、回復に導くなら本当に素晴らしいことではありませんか?そこに人の名声のための行動ではなく神様の御業が現わされるなら。
何より忘れてはいけないのは、私達神様から離れ霊的に貧しくなった、神様の恵みを失った、そんな私たちを、最も富んでいるはずの御子イエス様を遣わされました。最も貧しくなられて、人となって生まれてこられ、その間に住まわれた。自分の名声ではなく神様の御名があがめられること、私たちが悔い改め立ち返るためならと、全てを惜しむことなく与えてくださった。そのイエス様がこんな人を助けて何になる?と思われるような人とも出会い、その愛を与えられた。希望を失った人にも、見捨てられた人にも。でもそれだけではなく、私たちのこの思い煩いを、痛みを、何より罪も一切取り除くべく、イエス様がこれらすべてを身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、この神様の子とされるという最高の特権をいただけるのです。
こんな貧しく死にゆくしかなくなった私たちを見捨てず、神様は御子イエス様を遣わしで合わせてくださり、ご自身の内につなげてくださった。そんな中に神様が働かれるんです。それはこの世の金銀で測ることなどできませんよね、そこに現される神様の愛は、御業は。神様の名に勝るものはありません。だから、人の名があがめられることよりも神様の御名があがめられることを祈るのです。そのように神様に従い歩む中で神様の栄光・素晴らしさが、御名があがめられる、名声がほめたたえられることを願うのです。
同時に、何か人の名声や、見かけだけよいことを言う言葉、行動に惑わされてはいけません。神様の名を求めよう。貧しい時、イエス様の御名によって祈ろう。そこに神様が働かれることを。「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける」と語られているように、貧しい、辛い状況を見る時すがりつくのはわきまえのない、名声に走っている人やことばではなく、遜り、謙遜に歩まれたイエス様、その命をかけて愛されたイエス様を求める、その時、私たちは神様の富、素晴らしさを受け、回復されていくのではないでしょうか。
「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる」。私たちはこの神様の御前に謙遜になろう、恐れよう。そこに神様の確かな富と誉、イエス様のいのちにあって与えられるこのいのちが私達にも与えられる。それ以上に富んだものはない。あなたの魂を守るためにイエス様がいのちをかけられたその道、イエス様が守られた道、この道をただまっすぐ歩もう。いつかは終わる名声を求めるのでもなく、ただこの永遠の愛、とこしえの愛を現される神様の愛を信じて。
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。私たちはまず私たちを正しく導いて下さる神様の御前にへりくだろう。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が、あなたの行く道を正しく導き、その愛により導いて下さる。神様があなたが若い頃も、小さな頃も、年老いても、白髪になっても、希望を失っている時も、元気な時も、座り込んでいる時も…どんな時もあなたから離れず守ってくださるから。そしてこの希望を教育、というよりもあなたの周りの人たち、困っている人たちに届けよう。イエス様の名を届けよう。そこにあるいのちを、希望を、とこしえの愛を。「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる」という現実から、本当に富む神様があなたのためにへりくだり仕え、全てを惜しまず与え、支配するのではなく愛する方が今日あなたの日々を支え、そのいのちをとこしえにその愛で富ませてくださるから。出会ってくださったイエス様との日々をどこまでも求めようではありませんか。
「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は全地にわたって、なんと力に満ちていることでしょう」とかつての詩人であり王であるダビデが体験的に告白したように、私たちはこの神様の御名があがめられること、他に救いはない確かな御名が私たちに与えられていること、この名を呼び求めていい、とイエス様が仰られたのですから、私たちはその命をかけて愛されたイエス様の名を、この力強い名をいつも求めよう。全ての口が「イエス・キリストは主です」と告白する日が来ることを願い。