「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。』すると大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。『ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。』するとそばに立っている者たちが、『あなたは神の大祭司をののしるのか』と言ったので、パウロが言った。『兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、【あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない】と書いてあります。』しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。『兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。』彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、『私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない』と言った。論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。」
使徒の働き23章1-10節
私たちのいのち、日々は、偶然できたのでも、自分で作り上げていくのでもなく、神様が与え、築き上げてくださるものです。この天地万物を創られ、支えておられる方があなたにいのちを与えた、あなたが生まれる前から今に至り、これからも導いて下さる方が、神様があなたの日々に水を与え、生きたものとしてくださる。何より様々な思い煩いや、罪によって傷つきまたけがれてしまったこの命をもう一度取り戻し、いのちある者とするために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。ここにイエス様のいのちが注がれているのです。私たちはこの与えられた日々をもう他のものに支配させたり、汚させてはいけない。ただこのイエス様の愛、注がれた霊に生かされ歩もうではありませんか。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの負っている重荷、罪、一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後の話です。このイエス様のいのちをかけた究極の愛・救いを、十字架による救いをすべての人に届けようと、聖霊様が多くの人の内に働かれパウロなど様々な人を全世界に向けて遣わしていきました。
それで↑の少し前、パウロは各地で神様の素晴らしい御業を見ながら、エルサレムに戻ってきたのですがここでパウロを捕まえ、殺そうとする者たちが出てきました。自分たちこそ神様の民、正しいんだ、と自分の考える正しさ、自分の真実に生きていた人たちによって。ただ、そんな危機にあってもパウロは自分の過去を語ります。彼も彼らと同じように神様の熱心な愛、神の御子を私たちの罪の身代わりに十字架に架けたその愛を否定し、迫害する者であったこと、それが正しいと思っていた、でもそんな彼にイエス様が現れて、悔い改めに導かれ、こんな自分を神様が赦して受け入れてくださったんだ、と告白するのでした。
ただこれに反発した人たちによって、パウロは↑の前でサンヘドリン議会(最高議会・最高裁判所)に連れてこられ、そこでパウロは「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と語ります。
パウロはまず、彼をとらえようとする人たちに向けて「兄弟たちよ」と呼びかけます。私は散々伝道して困っている人たちも助けてきたんだ、という態度ではなく、私もあなたがたと同じなんだ、というのです。実はパウロ自身このサンヘドリンの議員だった、その事を誇るのではなく、彼は聖霊様に導かれ、あなたがたはそもそも、神様によって造られた、同じ兄弟なんだ、サンヘドリンという最高議会の人だから偉いんじゃない、同じ神様にあって本来兄弟、家族なんだって。この神様の愛が今彼らに示されたのです。
パウロは「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」と語りますが、彼自身はイエス様を迫害する者だったから完全に正しいわけではない。それでも神様の定める律法を大切にして生きてきた、イエス様と出会ってそうして変えられ、彼自身の内に神様が全き良心を与えてくださった、それだけあれば十分、この良心に従って歩みたい、と。
しかしこれにアナニヤは腹を立て、自分に敬意をはらわない彼の口を打つように命じました。ただ当時の歴史家ヨセフスによりますと、このアナニヤは紀元47-59年の間大祭司(議長)で、祭司たちに渡すべき什一献金というものを私物化したり、当時覇権を握っていたローマにわいろを渡すなどしていた、軽蔑すべき人間だった、と当時のことについて記録するほどに正しい人ではなかったようです。
パウロのこのことばに自分はそんな風に生きていない、といたいところを突かれた「ように聞こえた」んでしょうね。ちなみに別な大祭司もイエス様を同じような理由で平手打ちしています。彼らは大祭司という職に名誉を持っていて、肝心の神様に愛されている、神様の家族とされて生きる喜びを求めず、賄賂など別な欲によって生きていた。自分のしていることがすべてで正しい、そんな思いになっていたわけです。これは私たちも陥る事。
そんな彼にパウロは「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか」と語ります。実はイエス様もパリサイ人や律法学者などに「おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」と語られていたのですが、「白く塗った壁」というのは「律法の中には、死体にさわると汚れるというものがありますから、墓にさわると汚れるとされていました。祭りのときに、きよめられていなければならない人が、気づかずに墓にさわることがないように、しるしとして墓を白く塗っていた」、彼らはそのようだ、とイエス様、またパウロは言うのです。
彼らは自分の汚れを知らずに、自分がさも正しいかのように考え、神様の本当の恵み、いのち、霊に満たされていない。どんなに美しく着飾っていても、霊が死んでは何の意味もないじゃないか、そうして神様の恵みが失われて死にゆくことがあってはいけない、今こそ神様の恵みを受け取ってほしい、その思いでパウロは訴えているのです。イエス様も仰っておられた、イエス様がそれでもその十字架によって墓から引き上げられ神様の家族、子とされたのに、何を今さら他のもので塗り替える必要があるんだ、神様が聖めて良くしてくださる命、新しくしてくださったこの恵みに何が勝るんだ、と訴えるのです。
残念ながら大祭司アナニヤは悔い改める事なく、ここで預言された通り、紀元 66 年にユダヤ人たちによって暗殺されています。変わる機会を逃して本当に墓に、神様の恵みではなく死に沈んでいったのです。神の大祭司を罵るのか、とある人はこれを見ていっていますが、そうじゃない、イエス様の下さったいのちをいつまでも罵って平手打ちしてはいけないのです。これによって↑で意見が2分化していきますが、そんなことを言っている場合じゃない。何を大事にしているからパウロを認める、大事にしていないサドカイ人はパウロを認めない、とかそうじゃない、神様の愛に生きるかどうかなのです。
神様は何か自分の考える真実に生きるのではなく、神様の真実、イエス様の十字架に現された愛、救い、恵みに生きる事を願われているのです。もはや○○派等と分かれる必要はない、ただ真実の愛を御子イエス様の十字架にあって現わされた。これ以外に救い、真実はない、それなのにこのイエス様から離れてどうしましょう。神様は私たちを、サンヘドリンを超えた神の大法廷で裁かれ、死ぬ事がないように、むしろ神様の完全な家族、その新しいいのちに招かれたのにこれ以上何を誇り、神様ではない何か自分の考える真実に頼る必要があるのでしょう。
イエス様は今日あなたをそのいのちで覆ってくださっている。そのイエス様のいのちを自分流に塗り替えていませんか?そんな必要はない、イエス様の十字架の血潮によって私たちは勝利者とさせていただけるのです。このただ一つ、真実な愛、道へ導かれる、神様の御心の内を、神様の御働きを信じ歩ませていただこうではありませんか。イエス様の十字架と復活によって与えられた命、あなたは今日どう歩みますか。
