―あなたを熱心に捜し求める方がいる、だから― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。知恵があなたの心に入り、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。」

箴言2章1-12節

 

私たちはより良いものを追い求めます。方法論だったり、きれいな場所、美味しい食べ物、健康…。良いものを追い求めるということ自体は問題ないです。悪いことを追い求めるよりは。でも、何が良いのか、何が悪いのか、それは時に自分の価値観で変わってしまいます。しかし私たちが忘れてはいけないのは、本当に良い方がおられる、神様がおられるということ。神様は善にして善を行われる方、あなたを失いたくない一心で、御子イエス様に私たちの思い煩いも痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架に架けて死なせてでもあなたを取り戻し、良いもので満たそうとされた、この方が今日おられるのです。この方があなたに良いことをもたらしたい。あなたはこの神様をどれだけ求めているでしょうか。私たちは神様を侮るのではなく、どこまでも求め続けようではありませんか。

 

ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに示された知恵・箴言の続きになります。私たちが生きる上で本当に必要なものはたくさんありますが、知恵や知識なのではなく、それらを含め、全ての源なる神様を求める、この神様の知恵や力、愛…神様のくださる全てによって私たちは生かされているわけですね箴言の最初で示された、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」という神様がソロモンに、私たちに導かれたこのことばを私たちは忘れず、いつもこの神様の知恵、神様ご自身の御前にへりくだり歩みたいものです。

 

神様はさらにその知恵をソロモンに、また私たちに示されて行きますが、ここではまず「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ」と示されます。

 

これはソロモンがその子たちに言っている、それが基本的な考え方でしょうが、正確には↑の前や、先ほどからも申し上げています通り、この箴言は神様がソロモンに示された教えですから、神様が我が子に向けて語られているのですお父さんやお母さんは、我が子のために出来うる限り良いものを与え、守ろうとする。それなら、父なる神様はいかがでしょう。父なる神様ご自身の手でつくられたわが子、私たちのために備えておられることは言うまでもないでしょう。神様はいつも良いものを備えて下さっている、それを受け入れることを神様は私たちに訴えておられるわけです。

 

考えてみますと、どんなに良いものがあっても、それを良いものとして受け取らなければそれを得ることはできませんよね。どんなにあれください、これください、と求めても、神様がくださるものは自分の思うところと違うんだ、と考えて拒否するなら、その神様のくださるものを私たちは受け取ることはできません。神様に祈っても答えてくれない、与えられないじゃないか、という人もいますが、そもそもの話、神様が答えてくださって与えられたものを受け取っていますか?それは私の考えと違うからと言って拒否して、神様は答えてくれない、となっていませんか?神様は我が子に良い、宝を与えてくださるのです。

 

我が子に向けられた神様のことば「もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう」、これにしっかりと目を留め、耳を傾け、心を向けましょう。そこに私たちは神様の知識、神様のなさるその御業を、その恵みを、その愛を、その全てを見出す事となるのです。この世のレベルではない、この天地万物をその知識と言いますか、知恵と言いますか、その御手でつくられた、その方がつくりだされる最高を。

 

ところで、イエス様は「求め(続け)なさい。そうすれば与えられます。捜し(続け)なさい。そうすれば見つかります。たたき(続け)なさい。そうすれば開かれます」と教えてくださりましたね。これは聖書を読んだことがない方でもどこかで耳にしたことがある言葉かもしれません。誰に求め、誰・何を捜し、どこを叩くのか?これ、とても大事ですよ?それは神様に求め、神様を、神様のくださるものを探し求め、神様の開かれる道を叩き開いていただく。そこに私たちは神様の宝を見出すのです。そこに神様がおられることを知るのです。神様の開かれる道に、恵みのうち、いのちの内を歩ませていただけるのです。

 

イエス様はさらにほかの箇所でも、「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」と仰られていましたが、まさに私たちは「良い真珠」、神様の恵みを求め続けよう。何が何でも、持ち物全部売り払う、という表現は物のたとえかもしれませんが、しかしそれほどの価値ある、いやこの世のものとは比較にはならないものを、比較にはならない神様が与えてくださるのです。そこに広がる御国、そこに溢れる神様の愛、御力はいかばかりか。そこに輝く良い真珠、この世の値打ちでは測れない神様の恵みを私たちは見出すのです。それはこの世のどんな知恵や知識も太刀打ちできない。むしろ神様の知恵や知識、語られている言葉、導かれている言葉など何の価値もないといって捜すことを諦めた時、私たちはこの最も大切なものを与えたいと願い与えてくださった父なる神様のわが子・私たちへのプレゼントを見失ってしまうのです。

 

イエス様が人となって歩まれていたその生涯の中で、ある日、取税人のザアカイという人と出会いました。彼はローマに納める税金より余分に多くとって民に嫌われていた。もちろん仕事としての報酬分というのもあるでしょうが、それをはるかに超えたものを取っていたのでしょう。そんな彼はある意味で希望を失っていた。この世のお金は手に入れていても、友もいなければ希望もない、虚しい…そんな日々を送っていた彼のもとにイエス様は彼を捜しに来てくださった。そして彼と食事をしようと誘われた、罪人である彼を受け入れたのです。ザアカイは、この捜しに来てくださったイエス様を求め、彼は本物の宝を得たのです。イエス様によって与えられる本物のいのちを。

 

先程の「捜す」という言葉の意味はこのザアカイを捜しに来られたイエス様の行動であり、そのイエス様を一生懸命探し求めたザアカイの行動なのです。イエス様もあなたに最大の良いものを与えたいと、彷徨い歩く私たちを捜しに来てくださりました。そのイエス様を私たちが求めるなら、私たちはこのイエス様をいただくのです。イエス様の全てを。イエス様はご自身のいのちも含め、私たちに惜しむことなく与えるために来られたのですから。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」とイエス様ご自身が仰られているように。

 

イエス様の弟のヤコブ、まあイエス様は聖霊様によってマリヤの胎に宿られ、ヤコブはマリヤとヨセフの間に生まれた子ですが、その彼は「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」と手紙で書き送りました。イエス様は誰にでも惜しげなく、咎めることなく与えてくださる方なのです。そのイエス様がくださるものを私たちは宝どころか、この世の他のものと同列に引き下げたり、蔑んだりしていませんか?

 

むしろこの世の中にとらわれ、神様を見失っている中で、神様は「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」と約束してくださっているのです。人の目にはどん底に見えても、そこに神様の知恵が、愛が、その全てが働かれる時に良いものに変えられていく、これを信じあなたは求めていますか?

 

↑で「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。知恵があなたの心に入り、知識があなたのたましいを楽しませるからだ。思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す」とありますが、まさにあなたの盾となり、その道を保ち、守るため、あなたの心と魂を楽しませるため、救い出すため、イエス様は人となって生まれてこられました。ただ語られるだけではなく、その約束を成就するため、神様は私たちのこの思い煩いも、痛みも、悲しみも、何より罪も一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れられるのです。

 

そこに全ての宝があるのです。ここにいのちがある、神様の楽しみが広がっている、神様のこの知恵、イエス様を身代わりに罰するというあり得ない愛の決断、知恵があなたを訪れ、あなたの魂を取り戻し、喜びで満たして下さるのです。

 

↑のことばを見ると、「受け入れ」、「たくわえ」、「(耳を)傾け」、「(心を)向け」、「呼び求め」、「声をあげ」、「捜し」、「探り出す」、とすごい大変そうに見えますが、私たちが忘れてはいけないのはその求めるべき方は神様ただ一人しかいません。何よりイエス様がまずその愛を現され、人となって降ってこられ、今ここにおられるわけですから、私たちは熱心にただこのイエス様を求めようではありませんか。イエス様は熱意をもってあなたに最善を成したいと命をかけてまで愛されたのですから、私たちもこのイエス様を情熱をもって求め続けたいものです。そこにイエス様にあって与えられる本物の喜び・楽しみ・いのちが、御国が広がっていくのだから。