「『…わたしは生きている、―神である主の御告げ―わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。―神である主の御告げ―わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。…』」
エゼキエル書20章33-38節
私たちは一人ではない、これって本当に感謝なことですよね。どんなに厳しい時でも、元気な時でも、一人ではないんです。知ってます?そう、神様があなたと共におられるんです。あなたを一時的に愛するとか、木にかけるような人ではなく、あなたをつくられた神様があなたを心配し、またさせてくださっている。そのお心を、愛を注ぎあなたを支え、導いて下さる。この天地万物をつくられた方、あなたにいのちを与えた方、何よりあなたのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が。いるかいないか分からない存在ではない、初めからおられた方、あなたを最高傑作につくられた神様が今日あなたにその愛を注がれ、ご自身を現して下さっているのですから、私たちもこの神様から目を、また自身を離さず歩もうではありませんか。
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の際、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向けて、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。↑のことばが語られているこの段階ではBC591年、第2次バビロン捕囚により完全に国が崩壊するまで5年と迫っている状態。そのような中で、神様はそれでもご自身が彼らと共におられることを、幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形で語られてきました。何とか彼らに生きてほしいんだ、と。
そして今、↑で神様はイスラエルの民、また私たちに向け、自分たちが何者であるのかを、彼らの先祖イスラエルの内に神様がどのように働かれてきたのかを振り返りながら示されます。↑の前では、神様は本当に小さな者だったイスラエルの父祖にあたるアブラハムに目を留め、見捨てるのではなく、愛する事を選ばれ、彼のいのちに神様が介入、いや神様ご自身の恵みの内に移される事によって祝福されていきました。その後彼の子孫たちは約400年の間エジプトの奴隷として捕えられますが、神様の憐れみによって救い出され、かつて彼らの先祖たちが住んでいた地に向け導かれます。途中食料や水、戦いなど様々な問題がありましたが、神様がいつも全ての必要を満たしながら進まれ、神様の憐れみにより↑でついに約束の地に入りました。神様が彼らの内にその恵み、愛を、全てを注ぐから、そこは生きる、彼らの、私たちのいのちは神様の富に満ちたものとなるのです。
昨日の分かち合いで約束の地を得るまでの戦いについて振り返りましたが、↑に繋がる大事な事を、約束の地を獲得するためにたてられたリーダーのヨシュアは「ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。…あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した…」と死を前に語りました。
神様が与えて下さった命、あなたは誰に繋がりますか?と彼らに、私たちに問うたのです。神様があなたを愛することを選ばれて、契約と言いますか縁と言いますか、親しい関係を結んでくださったわけです。まず神様がご自身の愛を示されました。神様は、ご自身から、神様にすがっていいんだよ、と私たちを招いてくださっているのです。だって彼らは、あなたは神様が造られ、いのちを与えた大切な子、だから神様はご自身の全てを注ぎたい、注いでこられたのです。そしてだからこそ、これまでしてこられたように、神様があなたにこれからもご自身を現して下さる、と。だから十分に気を付けて何を愛するのか、心を、霊を守る、いや神様に守っていただこう、と。
私たちの心は弱い、何か辛いことがあればこれが奪われてしまう。しかし心を尽くし、精神を尽くし、その良いことをたがわない神様がおられる、あなたの内に神様の御思いを、愛を実現させてくださる。あなたは誰と親しい関係を持ちますか?あなたの都合のいいものを選んで心を委ねるのか、あなたのためにいのちをかけ、全てを尽くして愛される神様を選ぶのか、それをヨシュアは晩年彼ら、私たちに問うたのです。ヨシュアは死して神様のもとに帰ろうと、神様は彼らと、あなたと共にいるんだ、と。
ただイスラエルの民はその点で失敗してしまった。彼らは口では神様を愛します、従います、と言っていたのです。しかし彼らの心は神様から離れ、自分の都合のいい時に都合のいい言葉を言う偽預言者に心なびかせ、神様から離れていき、ついには今、彼らは神様のくださったこの土地から捕囚という道に進んでいったのです。
しかし、我が子がそうして失われていく、傷つき倒れていく事をどうでもいいだなんて誰が言えるでしょう。神様にとっては先ほども申し上げました通り、彼ら・私たちは大切な子なのです。それゆえに神様は今、彼らイスラエルの民に「わたしは生きている、―神である主の御告げ―わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。―神である主の御告げ―わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」と語られるのです。
そう、神様は死んだのではない。彼らは自分たちに都合のいい死んだ神を求める。彼らをいのちにではなく暗闇に招く。しかし神様は生きておられ、私たちに生きてほしい、とご自身の全てを注がれるのです。数章前で見た、へその緒を切ってもらえず見捨てられた赤ちゃんを、神様から離れて好きに生きていたけど結局傷つき捨てられた赤子のような私たちを、神様は見捨てられなかった、優しく、生きよ、生きよと言って抱きしめ、神様の全てで包み、もう一度ご自身の家に連れ帰ってくださるのです。捕囚地から必ず連れ帰すよ、力強い御手をもって必ず連れ戻す、と約束されるのです。神様は今死んでいるわけではない、今も生きておられ彼らの内にその御手を伸ばし、その愛を注がれているのです。今自分が辛くて神様は死んでいるのではないか、と私たちは考えますがそうではない、神様は今生きておられ、今あなたに生きてほしいとその愛を注がれているのです。私たちが気付かないだけで。
神様は、神様から離れ、倒れ傷ついた、死に、罪に支配されてしまっている私たちに憤りを覚え、滅ぼすのではなく、むしろ私たちを取り戻そうと今働かれている。神様は解放して終わりではなく、もう一度ご自身の恵みに私たちを招いてくださっているのです。もう勝手にしなさい、と捨てるのではなく、傷ついた私たちを癒すため、ご自身のもとに招かれるのです。神様がそれらの苦しみや痛みから解き放ち治めてくださる、回復させてくださるのです。神様の全てが私たちの内を覆い、生きたものとしてくださるのです。もはや何ものも私たちの前に立ちおおせることなどできないのです。
神様は今民に向け「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」と語られます。私たちは反逆者であってはいけない。そのようにえり分けられるような歩みであってはいけない。
むしろ私たちが神様の反逆者、罪人として滅びゆくことがないよう、神様はあなたを愛することを選ばれたではありませんか。こんな私たちを神様は見捨てるのではなく、神様から離れ、疲れ果て、倒れ傷ついた私たちのこの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたではありませんか。あなたがこの世の支配、暗闇、不安、罪の呪い、死、サタンの下に置かれるのではなく、むしろイエス様はいのちをかけて私たちをそこから救い出されたのです。このどん底にイエス様が降られて、あなたを引き上げようとしてくださったのです。そして私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちはこのイエス様の勝利を、同じ復活の恵みをいただくのです。いのちを賭してイエス様はあなたと契約、永遠の愛を結ばれようとされたのです。
私たちは神様に反逆する者の下にもうつく、心を置く必要はありません。痛い、辛い、悲しい、なら私たちはイエス様の御前に帰っていいんです。イエス様が十字架にあって癒され、新しいいのちで、愛であなたを今日覆ってくださるから。私たちは御子イエス様のいのちという何にも代えがたいかたのいのちによって神様につなげられ、この方のもとに置かれているのですから。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。私たちはあなたを心配し命をかけてまで救いに来られたイエス様の御前に今日ひれ伏しこの神様のもと生かされ歩もうではありませんか。
