―あの人のせいとか、この人のせいとかじゃなく、おかげさまで― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「次のような主のことばが私にあった。『あなたがたは、イスラエルの地について、【父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く】という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」

エゼキエル書18章1-4節

 

因果応報、なんてことばがあります。このことがあったのはこのせい、だれだれのせいだ、と。あまりすきないいかたではありませんが、自業自得、という言葉もある意味では似たようなものでありますね。私はどっちもあまり好きな言葉ではないのですが、言われたらあまりいい気はしないですよね。まあ確かに、物事したことに影響がないことはないのですが。私たちは様々な意味色んな影響を受ける、私たちの繋がっているもの、信じているもの、色々。いい影響ならともかく悪い影響まで。しかし神様は私たちをそうしたものから断ち切って、生きたものになってほしい。神様から離れて、神様の最高の恵みを失うのではなく、神様の最善によって生きてほしい、と。神様は御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを取り戻し、ご自身のものとしてくださった。今日私たちはこの神様に帰ろう。神様はあなたを待っておられるから。神様のおかげさまで、今日生きている、そう告白する者であろう。

 

さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚期、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。神様は、ここまで多くの幻や預言を通して民に訴えてきました。神様は、神様を見捨てて離れていってしまった民を見捨てていなかった、↑の少し前の章で、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いた姿を見ました、神様のその思いは変わらなかった。願わくば生きてほしい、とご自身の戸を、天の窓を閉ざすことなくその恵みを注ぎ続けていたのでした。傷つき倒れた彼らをそれでも愛し、抱きしめ、癒そうと。本当の意味で回復させようと招き続けるのでした。それは昔も今も変わらない。私たちがこれが現実だ、と諦めるところを、神様の現実、神様の愛で変えようと。

 

そんな神様の彼らへの、私たちへの訴えはなお続けて「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか」と語られます。このことわざは日本では言われない言葉かもしれませんが、因果応報(よい行いをすれば幸せが訪れるし、悪い行いをすれば災いが降り掛かる、の意)が一番近いかもしれません。父がしたことが子に影響を与えた、そんなことわざが当時のイスラエルで言われていたのでしょう。あの人たちが悪いことをしたから自分たちは今、こんなバビロン捕囚なんて危機に瀕しているんだ、と。このことばの影には、自分たちは何も悪いことはしていない、そんな思いが見え隠れしていますね。

 

じゃあ実際、神様は因果応報をどう語られているのか。「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる」と神様は語られています。因果応報的なものを終わらせる、と。ではその前は?神様は違ったことをしていた、教えていた?

 

神様は私たちが幸せになってほしい、生きてほしい、と教えてくださった律法の中の十戒の中で「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と語られています。

 

ここで神様は、父の咎は子に報い、影響を与え、3代4代にまで及ぼすと仰られています。ここだけを切り取ってやっぱり神様は因果応報を唱えている、関係のないものにまで責任を取らせるの?と考えたくなるのですが、そうではないのです。そのもととなる「偶像」について神様は指摘しているわけです。私たちが生きるのは、存在さえしない偽物の神々や思想、あなたを苦しめる何かによって生きて、その支配のある意味で報いを受けていく事は神様にとって悲しいからこそ、これを訴えているのです。神様の呪い、というよりもその偶像、あなたを支配する何ものかがあなたのあらゆるところに影響を及ぼしていく。

 

そもそもの話なのですが、私たちは神様によって造られた大切な存在、神様が造られた最高の世界に住まわせていただけている、神様の恵みが溢れんばかりに注ぎ、この神様によって生かされる存在だったのです。しかし、人が罪を犯したとき、罪の呪いが人の内に入ってきた。神様の呪いではないですよ?罪の呪いです。そしてその罪の呪いが人に死をもたらしました(原罪と呼ばれています)。最初の人(アダムとエヴァ)は、神様のようになれるというサタンの声に、誘惑にのったとはいえ、神様は自分に良いものを与えない、と神様ではない別な何かを求め始めた、そこからすべては始まったのです。

 

少しずつ見えてきたでしょうか。私たちは神様と共にいるから、神様に繋がっているから生きるのです。先程の十戒の中で先代に及ぶ恵み、とありましたが、神様を愛し、神様の命令、神様の語る中に現される恵みに生きる人には途切れることのない千代に及ぶ、あなたの全てにまで及ぶ神様の恵みが覆うのです。神様にとってはあなたは大切な子だから。あのへその緒さえ切ってもらえずに捨てられてしまっていたような赤ちゃんさえ大切に抱きしめご自身のもとに受け入れてくださった神様は、そのまま放置したいのではない、あなたをご人の愛、ご自身の良きもの、ご自身の全てで包みたいのです。神様はあなたを憎みたいのではなく愛したい、あなたを苦しめる様々なもの、罪を憎み、あなたを愛するがゆえにそこに留まり死にゆくこと、神様の恵みを失っていく事を悲しまれる。

 

私たちは今日、神様をどれだけ求めているだろうか。神様を愛するそのあなたを通して、子や孫、子孫、またあなたの周りへと神様の恵みが広がっていく。この世が悪いんだ、あの人が悪いんだ、ではない、そんなところに留まっているなんてもったいない。あなたを愛する父なる神様、まことの神様があなたをとこしえの恵みで満たそうとしているのに、私たちはどうしてこの神様を求めないでいられましょう。あの人がどうのじゃなく、神様はあなたと最善の関係を結びたいのです。神様は、あの赤ちゃんに、彼らに、あなたにその御手を伸ばされて神様の御もとに引き上げようと、導こうとされているのです。本物の関係に。あなたが神様を求めるのをだれよりも待っている。

 

イエス様はある時、生まれつき盲人であった男性と出会いました。彼を見た弟子たちは、イエス様に「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と尋ねます。因果応報論、すでにエゼキエル(実はエゼキエルと同じ時期にエレミヤも同じ預言をしていますが)を通して神様は因果応報の関係から本物の関係に招くことを語られていたのに、彼らはまだ信じず、目の見えない人を目の前にこんなことを語った、両親も目の前にいたでしょうに。しかしイエス様はこの時、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と答えられました。

 

私たちが目が見えない、暗闇の中でどうしたらいいのか分からない、不安に支配されている中に神様は栄光を現して下さる。イエス様は顔と顔を合わせ、私たちにその御業を現して下さるのです。そこに光を灯し、私たちが彷徨っていた暗闇から神様ご自身という希望の中に招き入れてくださる。この世のわざが支配するのではない、神様ご自身の御業が、神様の愛が、神様の全てがそこに現されるのです。その生まれつき目が見えなかった男性の目が開かれ喜びを得たように。イエス様がその手で泥をこねられ、回復させたように、あなたの体、あなたの魂、あなたの全てに触れて変えてくださるのです。なんと素晴らしい事だろう。

 

神様は、エゼキエルよりも後の時代、預言者マラキを通して「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」と語られました。あなたに大いなる恐ろしい日ではなく、救いの日をもたらしたい、その神様はあなたに心を向けられる、父なる神様と顔と顔を向けたいのちの関係に招き、救われることをここに約束されたのです。神様があなたから顔を背け、見捨てられた私たちはどうして生きられるだろう。神様の栄光の話、千代に及ぶ恵みの話などここまで見てきましたが、そんなことになったらどうなるだろう。

 

神様は↑の最後で「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ」と仰られましたが、神様は私たちに死んでほしくない、死んだ中に生きてほしくない、だからこそ、今神様に帰ろう、と訴えるのです。あなたは神様のもの、と仰られる通り、大切なあなたをそれでも見捨てられない、私のものなんだ、子なんだ、と宣言してくださっているのです。この神様以外にどこに神様がいるだろう。

 

神様はそんなどうしようもない私たちをそれでも見捨てられない神様は、私たちの死を子に、御子イエス様に背負わせることを決断されました。あなたがこのまま罪の報いを受け、永遠にこの神様から離され、あらゆる意味で死にゆくことを悲しまれる神様は、私たちのこの罪を、御子イエス様に身代わりに背負わせました。普通に考えたらあり得ない。しかし神様はそれでもあなたから顔を背け捨てるのではなく、御子イエス様が十字架上で苦しまれても、イエス様を十字架から降ろすことなく、最後まで十字架で私たちの身代わりに御子イエス様を罰し、死なせたのです。そこまでしてまであなたを本物の神様との関係に招きたかったのです。命をかけてあなたを愛されたのです。死んだ関係、罪を終わらせて神様の栄光の関係に。

 

そう、イエス様の負った罰、死は死で終わらず3日目に神様は御子イエス様をよみがえらせ、私たちもこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちもまた、イエス様の復活の恵みに与り、神様の子という最高の恵みに与らせていただける。なんという幸いだろう。罪の報い、世の報いではない、神様の喜びが、愛があなたに注がれたのです。私たちをこの罪の呪いから解き放ち、自由にし、いのちを与えんと。うち滅ぼされる命ではない、主が今あなたの内に生きて働かれ、生きたものとしてくださる。私たちはこのイエス様の十字架に示された究極の愛に帰ろうではありませんか。今日あなたに、イエス様にある報い、命が注がれ、覆う。あなたの子々孫々、あなたの周りに至るまで、神様の愛が溢れ流れ生きる事、私たちはこれを祈り求めようではありませんか。神様の愛、イエス様のおかげさまで私たちは今日を生きている。あなたにこの確信はありますか?