「エレミヤはすべての民に、彼らの神、主のことばを語り終えた。それは彼らの神、主が、このすべてのことばをもって彼を遣わされたものであった。すると、ホシャヤの子アザルヤと、カレアハの子ヨハナンと、高ぶった人たちはみな、エレミヤに告げて言った。『あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は【エジプトに行って寄留してはならない】と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。』カレアハの子ヨハナンと、すべての将校と、すべての民は、『ユダの国にとどまれ』という主の御声に聞き従わなかった。そして、カレアハの子ヨハナンと、すべての将校は、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべてを、男も女も子どもも、王の娘も、それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、エジプトの国に行った。彼らは主の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパヌヘスまで来た。タフパヌヘスで、エレミヤに次のような主のことばがあった。『あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパヌヘスにあるパロの宮殿の入口にある敷石のしっくいの中に隠して、彼らに言え。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしは人を送り、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張ろう。彼は来てエジプトの国を打ち、死に定められた者を死に渡し、とりこに定められた者をとりこにし、剣に定められた者を剣に渡す。彼はエジプトの神々の宮に火をつけて、それらを焼き、彼らをとりこにする。彼は牧者が自分の着物のしらみをつぶすようにエジプトの国をつぶして、ここから無事に去って行こう。彼はエジプトの国にある太陽の宮の柱を砕き、エジプトの神々の宮を火で焼こう。』」
エレミヤ書43章1-13節
人は誰しもがどこかで神様を求めている。本物の神様を求める人は言うまでもないのですが、おそらく神的な何かを求めている。それは自分の欠けを知っていて何とかして助けてほしい、という思いがどこかにある、自分を変えたい、そんな思いがどこかにあるからでしょうか。ただ、往々にしてあることですが、自分が求めることが満たされると離れる。気にくわなければ離れる。でも本物の神様を求めないで何を求めるのでしょうね。あなたを造られた、この天地万物をすべ治められる神様を、いやあなたが滅びることがないように、御子イエス様にその罪を身代わりに背負わせてまであなたを救わせた、その神様から離れてどうして私たちは生きられるでしょう。私たちは本物の神様を求めよう、偽物に惑わされることなく最後まで神様に従おうではありませんか。
さて、BC586年にバビロン帝国によって南ユダは完全に捕囚されてしまいました。それでもエレミヤはここに神様が回復させてくださること、もう一度再建させて下さる事を願い留まるのでした。そんな中で神様がネブカデネザルを通して立てられたゲダルヤというリーダーを、王族出身の戦地から帰ってきたイシュマエルが謀反を起こし、殺害します。神様がそこで幸せにしよう、彼らを祝福するとゲダルヤを通して語られていた、約束されていたのです。ところが彼は自分を王族のように扱わない、しかも自分よりも下のものが上に立つ、それが我慢できなかっただけではない、そんな神様を認めたくない、というのもあるでしょうが、彼はその後アモンの地に離れていきます。神様よりも自分を認めてくれるところに結局行くのです。まあこれは私たちでもある話で、自分をよく扱われたい、そうでなければ自分を認める人に移る。でもそれは不安定ですよね。
一方でそのイシュマエルという人が捕らえ連れて行こうとしていた仲間を取り戻すためにヨハナンという人が動き、無事に奪還に成功しました。しかし彼も不安だったのか、ネブカデネザルが、自分がたてたリーダーのゲダルヤを、同じユダヤ人のイシュマエルが殺害したとなっては、ネブカデネザルの怒りを買い滅ぼされかねない、と恐れ、エレミヤにこの先どうしたらいいか祈ってほしいと求め、そして「私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです」と誓うのです。
ヨハナンの中ではすでにエジプトに逃れることを決めていました。しかし、神様がこの地に留まるなら神様が全てから守られる、神様ご自身がともにあり、彼らを養われる、と約束されていたのです。それこそエデンの園のごとく神様が隅々に至るまでその恵みで満たして下さっていたように、そうして彼らを回復させようとされたのです。神様が共におられるということはそういうことです。神様が主、その神様が全地にその愛を、恵みを、全てを行き巡らせ、満たされる。神様がおられる、共におられそこに私たちを招かれるというのはなんと幸いなことでしょう。
ただヨハナンは、神様が決められたこと、語られたことに幸せがあるから従います、それが良くとも悪くとも従います、と言いながら、神様から留まるように言われたことに反対しエジプト行きを決めます。それゆえに神様は彼らがエジプトで裁きに合うことを告げられるのです。その悲しみの道に進まないために、神様は生きるための道、神様が共におられる約束をされていたのに、彼もまた自分の考えを認めない神様から離れるのでした。彼は神様が言うように迷っている、その迷っている彼のために神様はその道を示されたのです。私たちに対してもそうですよ?私たちが不安でどうしたらいいかわからずさ迷う、その私たちを見捨てないために神様はその道をいつも示し続ける、神様がおられるところに招かれているのです。不安定な場所ではない、神様ご自身が共にいるよ、と約束されている場所に。私たちの心は今、どこにありますか?
↑を見ると、「エレミヤはすべての民に、彼らの神、主のことばを語り終えた。それは彼らの神、主が、このすべてのことばをもって彼を遣わされたものであった」とありますね。神様はエレミヤを通してすべてを語られた。救い、いのちのメッセージと、裁き、死のメッセージを隠すことなく語られた。神様は死ではなくいのちをもたらしたい、と神様の祝福をここに誓われていたのです。神様は誓いを果たされ、語られたことは虚しくかえってくることがない、その神様がそこまでして私たちを招かれたのです。
ただ、ヨハナンは「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ」とこのエレミヤを通して語られた神様のことばを排除します。自分の思う通りのことを語っていないから、これは神様のことばではない、と。そして、ただ排除しただけではないく、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、王の娘も、それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、エジプトの国に行くのです。エジプトに行きたいという人もその中にいたかもしれませんが、エレミヤも連れていかれたことを考えると、そんなの関係なしに連れて行ったのでしょう。
この連れ去られた人の中には、王の娘、これはバビロン捕囚時の最後の王、ゼデキヤの娘でしょう。彼女をも連れて行った。王の娘を自分より下に置くことで、自分がいかに優れているのかをヨハナンも見せようとしていたのかもしれません。その力を誇示したかったのか。もしかしたら彼女をバビロンに襲われた時の取引のために連れていたのかもしれません。
ヨハナンたちは高ぶり、神様を排除し、自分が王だと言わんばかりの行動をする。その姿はもう、イシュマエルと同じです。あの人と私は違うんだ、なんて事はない、私たちも同じです。神様を退け、自分の思うことを力づくで通そうとしたらどうなるか。むしろ神様が下さる恵みを失っていくだけです。
本来神様は私たちを最高の姿に造ってくださった。ただの人形じゃない、神様の霊を吹き込まれ、本当の意味で生きたものとしてくださったのです。しかし、サタンが人に神様は良いものを与えない、神様は人が神様のようになることを嫉妬している、などなど吹きこみ、人は神様から離れていってしまった。しかし結果彼らの内に死が入ってきてしまった。神様はしかし全部を備え、また嫉妬するどころか、神様は神様の似姿、イメージに似せて人を造られたのです。神様はすべての良いものをくださっていたのです。最高の神様が最高の恵みを注がれているのに、それ以上にどうやってなれますか。神様より自分が優れているとどうしていえるでしょう。私たちが勝手に神様から離れて、その最高の姿を失っているだけではありませんか。そんな悲劇なことはないではありませんか。
彼らはタフパヌヘスというところを通ってエジプトに降っていきますが、彼らはエジプトの奴隷状態から苦しみ抜いた中で神様に救い出されて今の地に神様が招いてくださったのに、その悲しみの地を再び頼ってどうしますか。神様が与えてくださったこの最高の創造、イメージに、そのような悲しみの地、死、世の思い煩い、勢力、罪、サタンに支配させてどうしますか。
むしろ、あなたをその死、神様からの永遠の別離からもう一度回復させるため、御子イエス様が神様と、死にゆく私たちの架け橋となるために、私たちの内に住まわってくださった。天から降ってきてくださったのです。人となって生まれてまで。いや、それだけではない、何の罪のないイエス様が私たちを見捨てず、私たちのこの裁きを、罪を一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。神様は最後まで十字架からイエス様を降ろさず、死に渡されたのです。本来そのように完全に見捨てられるはずの私たち、そこにイエス様は降られ、イエス様の3日目の復活と共に私たちと神様の間にかけ橋を架けてくださったのです。私たちがイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返るなら、私たちは罪が赦され、この神様のもとに帰ることが赦された、赦されるのです。
あなたを究極の悲劇から御子イエス様のいのちをもって引き上げられた。このイエス様が今日あなたの王として住まわってくださっているのです。タフパヌヘスに据えられた石にネブカデネザルが当時座りましたが(実際にフリンダーズ・ペトリックという考古学者がこの町とネブカデネザルが座ったこの石を発見している)、でも今神様はそんな不完全な、いつかは取り去られるものではなく完全なる救い主イエス様をあなたの王として据えられたのです。この命がけの愛をもって今日、あなたのうちに注がれているのです。もう不安になって古い自分に帰る必要はない、私たちは今へりくだり、このイエス様の恵みが満ち溢れることを祈ろうではありませんか。私たちが神様から離れあっちこっちいくのではなく、神様が成される御業に信頼し、神様の内に心を留め歩みたいものです。