人は何か希望を求めます。どこかに希望はないか、と探し求めます。
そして何かを求め助けて!と心で叫びます。
でも不安もある、本当に答えられるの?とか。
でも、祈りって無駄ではないんですよ?
1つ前の投稿でも見ましたが
きいてくださり、実現される方がいるんです。
聴いてくださる方を知らなければむなしく感じるかもしれませんが。
本来神様に祈りを聞いてもらうなどおこがましい話かもしれない、でも御子イエスさまが私たちの罪を身代わりに背負い罰せられ、死なれたのです。しかし死で終わらず3日目によみがえられたことで、信じるすべての人を神様と和解させてくださった、この十字架ゆえに祈りは聞かれるのです。
そのイエスさまがこのように祈るように教えてくださった主の祈り(画像の)。その解説、よければ^_^
「天にまします」とは言えません。
私が地上のことだけに気をとられて、天に宝を積んでいなくては。
「我らの」とは言えません。
水も漏らさないような霊の密室に閉じこもっていたのでは。
「父よ」とは言えません。
日常の生活の中で親子のようなつながりを持っていなくては。
「み名をあがめさせたまえ」とは言えません。
力を尽くしてそのために労していなければ。
「天になるごとく地にも」とは言えません。
奉仕のために自分を献げる備えができていなければ。
「み心をなさせたまえ」とは言えません。
み心を疑ったり、反発したり、従わずにいるのでは。
「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」とは言えません。
過去の経験によって生きていたり、いい加減な生き方をしていては。
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」とは言えません。誰かを恨んでいるのでは。
「我らを試みにあわせず」とは言えません。
自分から試みの中に入って行こうとしているのでは。
「悪より救いだしたまえ」とは言えません。
祈りによって霊の世界の戦いに参加する備えができていなくては。
「国は汝のものなればなり」とは言えません。
忠実な民として「王」と同じ心を持っていなくては。
「力は汝のものなればなり」とは言えません。
人の行動を心配したり、隣り人がどのように考えるかを恐れているのでは。
「栄えは汝のものなればなり」とは言えません。
人々の称賛を自分が求めているのでは。
「限りなく」とは言えません。
もし私が時の流れの中だけに、目を向けているのでは。
「荒野の泉Ⅱ」 カウマン夫人 より