「ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである。彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。ゼデキヤ王は、シェレムヤの子エフカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。『どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください。』―そのとき、エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられていなかった。パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった。―そのとき、預言者エレミヤに次のような主のことばがあった。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。【わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く。】主はこう仰せられる。【あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ。たとい、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らがそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この町を火で焼くようになる。】』」
エレミヤ書37章1-10節
「祈り」というのは誰もがたぶんしていると思います。誰に祈るか、それは別として不安感があるのか、何かしらの対象に祈っている。まあ、言葉だけの「お祈りメール」なんてものが就職に関してはありますが。もしくは言葉だけ祈っているよ、と言いながら忘れ去られていたり。でも、誰に祈るのだろう?いないものに祈っても答えることはできない。「祈っているよ」という人が叶えてくれるわけでもない。私たちは誰に、何を祈るのだろうか。神様は祈っていいんだよ、と教えてくださっている。祈っていいんです、神様に。この天地万物を造られた、全能なる神様が驚くべきことをしてくださる。私たちの常識ではない、神様の大いなる計画を、あなたへの愛ゆえにその最高の御心をもって応えてくださるから。御子イエス様のいのちをあなたのために惜しまず与えてくださった神様が。私たちは今日、誰に、何を祈りますか?
さて、↑はバビロン捕囚より約20年程前、エホヤキム王の時代に神様が告げられた言葉になります。そんなある日神様はエレミヤに、「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」と語られエレミヤはこれを書きしるし1年、バルクという人にこれを外に伝えるように託します。そしてこれを受けた町の人たち、首長たちはこの神様の憐れみを、愛を受け、神様の憐れみを求め、なお王もこのあわれみに与ってほしい、と王のもとに向かいます。エレミヤたちにはいざという時のために隠れるように告げて。
ところが、王はこの巻物を少し聞いては切り刻み、火にくべるという事を繰り返し、完全にこの巻物を亡き者にしました。神様のラブレターを、何という事を、という感じですが、エレミヤが苦労して書いたものを、というだけではなく、神様が彼に対して、私たちに対して注がれてきた、これからも注がれていく神様ご自身を否定し、その関係を断ち切った、それを切り刻んだのです。そうして彼はネブカデネザルによる悲しい死を迎えることになるのでした。
そこから時代は進み、「ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王とな」りました。エホヤキムの子がエコヌヤとありますが、厳密な名前はエホヤキンです。彼は3か月の間だけ王となっていました。しかし、ネブカデネザルは、自分を裏切ったエホヤキムの子は信用ならない、と言ってエコヌヤこと、エホヤキンとその家族はバビロンにとらえ移され、彼のおじにあたるゼデキヤがネブカデネザルによって王として捕え移されるのでした。
エホヤキンについての記録は非常に短いですが、彼について「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった」と書かれています。確かに状況的には命乞いをしなければいけない、とらえ移されるしかない状態だったのかもしれません。しかし、その人生が神様の御手の内にあるのか、委ねるのか、それともいや神様を信じて何になるのか?と諦めるのか、とでは全然違います。神様は私たちを、神様を捨てて歩んでいると切り捨てるのではなく、それこそエホヤキムが神などいない、とその関係を切り刻み、焼き捨てるような関係ではなく、あるべき神様のことば、恵みで、愛で覆いたいのです。エホヤキンにも語られ続けていた、しかし彼らはこれを拒否した、とはっきりと書かれていますが、どんな状況下にあっても、それでも神様を信じる、神様はそれでもあなたを見捨てておらず、その愛を示し続けている、この神様に立ち返ること、それを神様は訴えているのです。本物の関係に招かれているのです。以前の箇所で「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」とエレミヤに神様が仰られたように、罪赦された本当のいのちある関係に招きたかったのです。
そんな中、ゼデキヤ王はシェレムヤの子エフカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして「どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください」と言わせます。バビロンがエルサレムを包囲する中、エジプト軍が出てきていたことで、その包囲が一時的に解かれていました。
ゼデキヤはどんな思いでエレミヤのもとを訪れたのでしょう。神託を求めたのか、何か希望的観測で、何か祈ってもらえれば変わるかもしれない、と思ったのか。彼はこれまで神様を求めていなかった。しかし神様はその窓を開いていたのです。神様は彼に答えてくださったのです。私はこのエジプト軍が来たことでバビロンが一時撤退し、その包囲を解いたのを偶然とは思えません。これまでの巻物の件しかり、神様が彼に立ち返ってほしい、とその門を開き、彼が神様を求められるようされたのではないか。今こそ神様に立ち返れ、と。そうでもしなければ彼は神様に頼らない、神様の方からその門戸を開いていた。神様はまだ締め出していない、神様は私たちにその門を開いてくださっている。
考えてみれば、エデンの園で人が罪を犯したとき、エデンの園から締め出されもう神様から完全断絶されていたはずなのに、神様はそれでも彼らにそのエデンの園の土を、手作りの、しかも何の罪もないはずの羊の皮で着物を作り与え、また彼らのその後の歩みを守られます。また祈ることを教え、その祈りに神様は応えてくださった、その祈りは力強く、神様は私たちを見捨てず答えてくださるのです。
神様はゼデキヤ王の要請に「わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く。…あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ。たとい、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らがそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この町を火で焼くようになる」と答えられました。てっきり自分たちは助かる、そんな安心感が欲しくて祈ってもらったら、なんと期待していたエジプト軍は引き返し、再びバビロン軍が戻ってきて町を囲み攻め、ついには火で焼かれる、と。
なんで?神様はなぜ自分の希望をかなえてくれないの?これは多くの人が疑問に思うところでしょう。こんな絶体絶命ならなおのことかもしれない。ただこの時、私たちはもう一度考えなければいけない。祈りに答えてくださった神様がいるという事を。神様は無視をされずに、これから起こることをここで神様は示された。また、これまでのエレミヤの預言の中で、そのまま身を委ねる事、神様のご計画、将来と希望のある計画に身を委ねるように、と仰られていたように、神様は彼をご自身の恵みの内に引き入れようと招かれている、いたのです。その神様が彼に門戸を開いてくださっている、彼を待ってくださっているのです。祈りを聴いてくださっている方があなたを神様ご自身の内に招かれたのです。
私たちは誰かにとらわれる前に、神様が開かれている門に帰ろう。もうあなたを世によって焼き払われ、神様の恵みを失ってはいけない。「祈ってください」、それを叶えるのは神様です。他の誰でもない、あなたのために門を開き招いてくださった、この神様があなたのために答えてくださる、人が考える以上の神様の最大の計画をもって、愛をもって、御心をもって応えてくださるのです。変えるのは、人じゃない、神様なんです。
ある人は「○○さんに祈ってもらえばよくなるかも」と祈りをお願いします。その先生が言っていたのは祈りはしますが、答えるのは神様ですからね、と仰っておられました。そうなんです、私たちは神様を求めることを忘れてはいけない、答えてくださる神様を忘れてはいけない。人では成し得ない、神様が答えてくださる。神様に、神様の御心を祈ることを忘れてはいけないのです。確かに世の状況が私たちを囲おうとも、神様がご自身の内に招いてくださった、そのいのち、恵みに勝るものなどないのです。世や思い煩い、サタンに本来のあなたのいのちを焼き払われてはいけない。むしろ、私たちのいのちを神様で全部覆っていただこう、その神様が開かれたいのちを歩ませていただこう。
神様はあなたの魂が、命が世の中や様々なものにとらわれていることに気づいているでしょうか。それが普通、仕方ない事、と考えていませんか。しかし神様はそのような私たちを取り戻すために、神様は御子イエス様を私たちのこの罪の呪い、サタンの手から、一切救い出し、取り戻すため、私たちの身代わりにこの罪一切を背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれました。本来私たちがこの罪ゆえに滅びなければならなかったのに、その罰を身代わりに背負ってくださった。それはあなたがこの世の思い煩い、罪から解き放たれ、命を得、自由とされる、神様の恵みの内に生きるためです。イエス様の死は死で終わらず、3日目によみがえられたことによってこれら一切に勝利され、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として受け入れられるのです。
私たちは今こそ、この神様に帰ろう。十字架上であなたの罪を執り成し「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と祈ってくださった、命がけであなたを愛し、赦しを懇願し、そのいのちをもって和解させて下さり、取り戻された、神様の子とされ、全てから解き放ち、神様の恵みへと、永遠のいのちへと引き入れられた、この命を喜び歩もう。そして神様の御心が、愛が我がうちに、また隣人、そして全地に溢れることを祈ろうではありませんか。そこに広がる神様の栄光を期待して。