「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」
使徒の働き8章1-4節
人の命が失われていく事ほど悲しいことはありません。よく年末などで「今年も惜しい方を何人もなくしました」という言葉をTVで聞かれます。まとめて。でも、惜しくない人っているんですかね。だって、みな神様から造られた大切な存在で、惜しくない人なんていない。比べる事なんてできない。天国に行ったとわかっていても悲しいものは悲しい、ということを私も両親が召天した時、従姉妹、友が自死した時などいやというほど思い知らされたことを覚えています。神様にとってはあなたが失われることほど、私たち以上に悲しまれる、だからこそ、神様はあなたを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださった、そして今もその愛を注がれています。私たちはこれほどに愛されている神様がいることを覚え、歩もう。神様はどんな時でも共におられるから、どんな時もこの方から離れず歩もう。
さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れ、その数は日ごとに増しています。ただこれを良く思わない宗教家たちが若手のホープ、ステパノを偽証によって逮捕します。その時ステパノは聖霊様に満たされ、神様がいかに彼ら、私たちを憐れまれ、愛し、働かれてきたのか語り、これに切れた宗教家たちがステパノを殺害するという(彼らの主張としては神を冒涜したからというところですが)悲しい出来事が起こりました。↑はその後の話になります。
↑でまず「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」と出てきます。このサウロという人は、この後クリスチャンの大迫害に動きます。しかし、その後、復活のイエス様に出会い、彼はこの迫害の罪で死刑、となるのではなく、悔い改めに導かれ、彼は伝道者として用いられ、新約聖書の大半の書簡を彼は書き残すことになり、それが多くの人たちを励まし、今も励まし続けている、そんなキーマンとなる人がここに登場します(正確には↑の前でも登場し、ステパノ殺害時、これにかかわった人たちの着物を預かっていました)。
聖書としては、そのような大きな働きにかかわったサウロ、後にパウロと改名される彼の暗黒歴史については隠したいところでしょう。しかし正直に、彼は初代教会の将来有望なステパノ殺害に加担していたこと、また彼の殺害に賛成し、さらには「教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」と彼の行った悪行の数々を記すのです。そして後にこれを削除することもしなかった。事実として彼は自分はそんな罪人だったんだ、と認めるのです。その思いについては、この使徒の働きの中で何度も彼は独白するのですが、それほどに彼は、神様の憐れみを受けたのです。ちなみにこの書簡を書いたのは歴史家のルカという人(福音書も書き残しています)ですが、ルカにこのことを伝え、書き残させたのはまさに彼にかかわった神様の偉大さを訴えたわけです。
正直な話が、ステパノの死は当時のクリスチャン、初代教会の人たちからしたら痛恨の極み、これ以上ないほどの悲しみだったでしょう。これから、という時に、エースが殺され、次は自分たちのバンでは、と恐れて散らされ、孤独な道を進まなければいけない人たちも多くいたわけですし。神様はじゃあこれをなかったことに、うやむやにしたのか、といたらそうではありません。後にサウロの前に復活のイエス様が現れた時、それをうやむやにせず、はっきりと「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。…わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と告げます。彼の罪をはっきりと指摘されたのです。イエス様は彼の罪を曖昧にしませんでした。罪は罪。イエス様ははっきりしています。
あまり罪罪と語ると、書くといやがられることがあるかもしれません。一度赦されたらもう罪を悔い改める必要はない、なんて言い放つ方々もいますが、とんでもない話で、罪が残ったままでいいなら、イエス様はサウロの前に現れなかったし、クリスチャンたちに向けて罪の悔い改めを訴えることもなかったでしょう。サウロに至っては普通なら罰して、同じように死罪であってもおかしくない。でもそのような死罪になるはずのサウロを、私たちを憐れまれた神様は、私たちが罪によって死んでいく、神様の恵みを失い、サタンの支配に、罪の呪いに支配され、神様が与えてくださっているはずの最高のいのちを、人生を失っていくことを悲しまれる。だからこそ、イエス様はサウロの前に現れ、悔い改めを迫った、私たちに今悔い改めることを訴えるのです。
サウロは神様を一応は信じていたのです。ただ自分の価値観と合わないから、とイエス様を否定し、それを信じるものたちを迫害していったわけです。それは私たちにだって起こりえる姿。自分の考えることをしない神様は神様ではない、と否定する、呪い、口撃する。同じじゃないですか。神様のあなたへの愛を、恵みを否定する。それは神様の恵みを語るステパノを殺害した宗教家たちと変わらない。それでも神様がステパノを通して語られたのか、彼らがその失われゆくいのち、本当の恵みを失っていることに気づかないでいる私たちにいのちを得てほしいからです。
もちろんステパノの死は痛恨の極み、民の悲しみは神様の悲しみだったでしょう。彼はそれでも天の御国に迎え入れられた、栄光の御子イエス様の姿をステパノが最後に見たように、迎え入れられた、神様はその恵みの門を今彼らに向けて開かれていたのです。私たちに開かれているのです。イエス様が私たちのこのいかんともしがたい痛み、思い煩い、何より罪を、一切を身代わりに背負われ十字架に架けられ、死なれた。そして3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として迎え入れられる。永遠の裁きではなく、永遠のいのちに招かれるのです。
私たちはこのあわれみを今受けているのです。今も、「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」とあるように、神様の恵みは、愛は様々な形を通してあなたのところに届いているはずです。私たちはこの神様から本来罰せられ、死ななければいけないところをイエス様のいのちによって救われた、その憐れみを受けた、この愛を思い起こし、この愛に生きようではありませんか。あなたの歩みと共にこのイエス様がおられ、あなたの内にその愛を、恵みを行きめぐらせ、満たされるから。だから恐れず、罪に帰らず、このイエス様のくださった、主であるイエス様があなたの道を照らし導かれる新しい命のうちを歩ませていただこうではありませんか。