「彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。『獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。』宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。そこへ、ある人がやって来て、『大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています』と告げた。そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。『あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。』ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちは彼にあってそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。』」
使徒の働き5章21-32節
人は何かの名前の下にいることで安心することがありますね。とりあえず○○さんの名前を出しておけば自分は安泰だろう、と。地位という名のもとに高ぶる人もいる。名前の力というのはある意味で良くも悪くも強い。私たちは今日誰の名前に従っていますか?私たちは人ではなく神様に、神様の御名にそれでも従おうではありませんか。神様は私たちをご自身のもとに引き寄せてくださる、神の御子イエス様のいのちをもってしてでもあなたを罪から、裁きから救い、本当のいのちの内に、救いへと招かれたのだから。
さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。色々な諸問題はありながらも、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれ、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊につかれた人などいましたが、癒し、神様の大いなる御業がここに現わされるのでした。しかし、自分たちの保身、名誉を守りたいがために神様を見ていない宗教家たちが使徒たちを再び捕まえ牢に入れます。しかし御使いを神様は遣わし、彼らを救い出し、宮で再び語るように、と神様が弟子たちに語られました。
せっかく助け出されたのに、と思うところですが、ペテロなどの使徒たちは恐れることなく、夜明けから宮にたちイエス様の福音を語り始めます。人々はこの時間に集まってきて祈るわけですから、当然密告される可能性は高い。しかし、使徒たちは恐れず宮に立つのです。↑にあるように「あの名によって教えてはならないときびしく命じ」られていた、しかし弟子たちはもう十分人は救われたからいい、他の地に行こう、とはせずにここで再び語るのです。
彼らは神様のご意思によって今牢から連れ出された。彼らは神様が「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と仰られたのだから、ここに神様の御心あがると信じて立ち続けるのです。後でいい、とか今は危険だから、ではなく、時が良くとも悪くとも、この時は神様が私に与えてくださったとき、この命はイエス様の十字架によって新しくされたいのち、全ての主権を握っておられる神様に彼らは委ねたのです。そこにあったのは、使徒たちの口を通して語られる神様、神様のご意思がここにあったのです。
彼らは弟子たちが宮に立っていることに当惑しています。そもそも牢に閉じ込めていたはずなのになぜか外にいること自体不思議でしょう。簡単に出られる牢に彼らが入れるとは考えられません。なんでこんなことが?それにあれだけきつくいっていたのに。でも彼らが恐れていたのは弟子たちが福音を語ることによって彼らの人気が奪われていく事。自分たちから、要するに信徒的な人たちが離れていく事を恐れていたのです。しかも、自分たちがイエス様を十字架に架けた、と言う。
でもそれ、事実です。つい数か月前に自分たちがイエス様を十字架に変えたことを忘れている。いや、その責任が自分たちにある、と。彼らは自分たちの責任を逃れるために、ピラトというローマの総督に殺させる算段をつけ、責任逃れしたのですが。ただ、これは彼らに対することだけではなく、私たちに対する訴えでもあった、使徒たち自身でもあったのです。彼らもまたイエス様を裏切り十字架に架けるきっかけとなった、とかそういう話でもないんです。使徒信条というものでイエス様は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白するのですが、それをしたのはポンテオ・ピラト「だけ」ではない、当時の使徒・弟子たち、民衆、宗教家たち一人一人、そして私たちなのです。
ペテロたち使徒はこの宗教家たちを前にして「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちは彼にあってそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です」と言います。
イエス様は死んでない、死んで終わったのではない、よみがえられたのだ、と。「あなたがた」と使徒たちは言っていますが、使徒たちもその中に入っている、自分たちが十字架に架けたのだ、と。どういうことか。それはイスラエル、そして私たちに「悔い改めと罪の赦し」を与えるために、神様がイエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架に架けられ、罰せられ、死なせたのです。これこそが使徒たち、当時の民衆、宗教家たち、そして今を生きる私たちがイエス様を十字架に架けた、という事なのです。
今使徒たちが裁判の席にある意味で立たされていますが、本来は私たちがその罪のゆえに神様の御前に立たされ、罪の裁きを宣告され永遠の牢、裁きにくだされるはずだったのです。自分は何もしていない、と思う私たち、神様から離れ、好き勝手に生きていき、神様を神様とせず歩む私たちはもう捨てられてもおかしくなかった。しかしその私たちを見捨てないために、御子イエス様を私たちの身代わりに神様は罰せられたのです。そして今、聖霊様が私たちの助け主となって私たちのいのちを保証されているのです。
私たちは神様ともう無関係にされ、裁かれ捨てられるのではなく、神様のものとされるために御子イエス様のいのちにあって今引き戻されたのです。その私たちがどうして神様に従わずにいられましょう。私たちが恐れるべきは世ではない、神様を正しく恐れる、このイエス様の御名が私たちの内にあり、今生かされている、神様の究極の愛が今日私たちを覆っているのです。もう罪という牢獄の中に帰ってはいけない。私たちは罪の牢獄、死から引き出されたのですから、もう振り返ってはいけない。この神様が開かれた新しい命を、どんな時もイエス様から目を離さず歩もう。イエス様が命をかけて開かれたこの新しい道、いのち、主の御心がなることを、主の御心がすべてを開かれていく事を信じ歩もうではありませんか。
