―癒し:本当の癒しって― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」

使徒の働き5章12-16節

 

よく「癒される~」という言葉を聴きます。まあ色んな現象から癒された感があることは確かですが。でも、それはそう感じるくらいで実際の癒しとなると不完全でしょうね。また元の生活に戻っていって疲れて…その繰り返しが起こるわけです。では本当の癒しってなんでしょうね。神様は私たちを完全に癒すことができる方です。神様ご自身のもとに引き寄せられる、私たちが立ち返る時、私たちは本当の意味で癒しを受ける、神様の命に生きるものとされるのです。私たちは今日、本当の癒しを受けているでしょうか。

 

さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ただ助けるだけではなく、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。↑の直前で、アナニヤとサッピラという初代教会にいた夫妻が、神様に信頼せずに自分というものを大事にしていた結果として、最後は死を招いたのでした。

 

彼らは自分たちの自尊心を守るためか、周りの人たちが自分の持ち物やら献金をしたりなどをしている姿を見て、良し自分もと土地を売って一部を教会に献金した、これだけを聴くとそれほど問題がなかったように思うのですが、彼らはその一部ですがよければ使ってください、ではなく、これが全部、全部私は献金した、偉いでしょ?的な部分があったのかもしれません。そしてペテロたちになぜ聖霊様を欺くんだ、と指摘され、ショックからか心臓麻痺か何かで死んでしまったのです。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた、と。

 

こうしてみてみますと、彼らはある意味では↑で繰り返されている「癒し」を受けていませんでした。神様を信頼せず神様を求めず離れていた、自分はこれだけのことをしたんだから、神様私たちを認めてよ、とか。他の人はこうだから、自分もこうしなければいけない、という思いに駆られて。ただ、彼らは神様をどれだけ頼っていたのでしょう。

 

↑でこの使徒の働きを書き上げたルカは「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた」と記していますが、正確には聖霊様が使徒たちの内に働き、多くのしるしと不思議のわざが人々の間に行われたのです。ペテロたちがすごいんじゃないですよ?これは以前40年足の萎えた男性が聖霊様の力によって癒されたのと同じです。神様は、なぜ新しい助け主、聖霊様をお遣わしになられたのか。それは教会誕生の時、ペンテコステの時だけの助け主ではない、その聖霊様を通して神様の不思議な業が、しるしが現わされるのです。それが「大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた」とあるように、様々な形で現されたのです。

 

こんな癒しの話なんて、昔だけじゃないの?空想話じゃないの?とある人は言うかもしれませんが、そうではないのです。神様は、私たちに不思議な業、しるしを現したい、「ソロモンの回廊」、これは3章でも見ましたが、神殿、宮です、神様の宮に、神様の家族に今も招かれているのです。今も生きておられる神様の、生きた力、恵みによって私たちを生かしたい、その本当の癒された関係に神様は招きたい、招いてくださるのです。アナニヤたちは、この神様の癒しを本当の意味で受けていなかった。神様にこそ命がある事、救いがある事、癒しがあることを彼らは信じていなかった、そして自分たちの思いのまま生き、神様を欺くといいますか、欺いた生き方をしていた、神様がご計画されている、最高の姿を欺いて生きていたのです。

 

しかし、神様は失われてしまった、神様から離れ自分勝手に生き失われてしまった神様との関係、それによって、罪によって傷つき倒れてしまった、生きる力を失っている私たちを癒すため、私たちのこの痛みも、傷も病も、何より罪も一切を御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を神様は赦され、神様の子として迎え入れてくださるのです。この和解の内に、罪の赦しという癒しの内に、神様との生きた交流が生まれ、この内に神様の大いなる恵み、あらゆる不思議としるしがあなたのうちになされ、欺いた、偽のいのちではなく、神様の本物の恵み、命に生きる事ができるのです。ここに癒しがあるのです。

 

↑で「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった」とありますが、私たちはペテロや自分の自尊心、自己満足を求めるのではなく、神様とのこの交わり、生きた交流に加えていただこう。神様は今日もあなたを待っている。自己満足、自分を尊敬させる歩みではなく、神様のすばらしさの中歩もう。信じ、その中に神様が現わされる御業はあなたにとどまらず、溢れ、ますます増え広がっていくから。全地に満ちていくから。私たちは誰かの影を求めなんとなくいるのではなく、大胆に本物の神様を求めよう。本物の神様の癒しを、救いを受け、神様の本物の恵みに今日生かされ、歩もうではありませんか。