―本物と偽物:ほかに並ぶものはない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。主はこう仰せられる。『異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。』主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。」

エレミヤ書10章1-7節

 

本物と偽物、どっちがいいですか?愚問ですよね、普通に考えれば。ただ、少しでも安く済ませたいと偽物で我慢する人もいますし、逆に偽物を使って悪い商売をする人もいる。これが本当に厄介な話ですよね。でも、それはしょせんはものですから、いつかは流行りも変わり、すたれていきます。何かもったいないですよね。あなたという日の似は何が掲げられていますか。本物の神様がその御手を伸ばしあなたを導いて下さっている。私たちは他に比べることも、並ぶことさえできない真の神様のくださったいのちの内を歩ませていただこう。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は私たちに悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。神様は見捨てようと思えば見捨てられる、でもあなたが滅びることほどの悲しみはない、と涙で溢れた神様はそれでも、倒れたあなたを起き上がらせ、新しい季節へ招かれるのです。神様を誇る、心を尽くして思いを尽くして、いのちを尽くして神様を愛そう、心を尽くして愛される神様がいる、その神様の内に生きよ、と。

 

神様はなおエレミヤを通して「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ」と語られます。

 

異邦人の道ってなに?と思う方もいるかもしれませんが、これは諸外国の道、ということです。これは日本やこの世の中を生きているとここで語られていることに触れることがかなり多いと思うのですが、偶像崇拝について言われているのです。仏像だけではありませんね。日本では八百万の神などと言われていますが、なんでも神に祀り上げる。天の事象さえ何やら擬人化して像にしたりとかね。目に見えなくても、パワースポットだったり、「これ、神ってる」と言って神を造り上げる。もしくは自分が中心となるある意味で自分を神とする。目に見えるものを拝まなくても色々私たちの心は何かしらのものに向け、それを頭は下げずとも心を彼らに下げるわけです。

 

ここまで書くと身に覚えがあるかもしれませんね。そんなつもりはなくとも実は拝んでいた、ということが。なんでそんなことが起こるのか、何で人はここで神様が指摘するように、天の事象などを偶像化する、神化するのか?習慣だから?これ、往々にしてある話かと思うのですがうちの宗教だから、それが日本だったり彼ら、習慣だから、と。でもそこに心はあるのかな?もしくは不安という部分もあるでしょう。何かにすがらないと不安なんだ、と。なるほど、その気持ちも誰もが持っているものなのかもしれません。自分はクリスチャンだから関係ない、と↑の箇所を読んで思っている人でも実は偶像は作らなくても神様以外の何かに、どうせ神様は応えてくれないから、と言って逃げる、別な何かの方が「自分に役立つ」といって造り上げること、ありませんか。↑の箇所はそのことも問題としているわけです。神様をへたをしたらそうした偶像と同格にまで引き下げる。

 

ここで神様はその問題を取り上げているわけですが、ここで神様は「それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ」と仰るのです。そうなんです、それは木工が木でつくった物にすぎないんです。木じゃないものだってあるじゃないか、と言う人もいるかもしれませんが、今申し上げましたように、それらは習慣というものだったり、不安、何かへの失望、誰かの成功体験などといった「木」をもとに人が作っているわけです。

 

そしてそれを金銀などで飾る、自分たちの期待を込めてこうあってほしい、神はこういうものだ、という自分の願望を込めて形づくっていく。でも気づきますか?自分の求めに答えさせるものに変えていく。しかし人の手で着飾らせていったい何の価値があるのか、彼らは何ができるというのか。結局どんなに像を作っても、神として祀り上げても、あなたの不安を変える何かを擬人化しようとも、彼らは自分では動くことはできません。人の手で磨かれなければ元の材料の輝きも、装飾したものもいつかは輝きを失うわけです。彼らをあなたが輝かせようとしても、あなたを彼らは輝かせることなどできないのです。

 

極めつけは「きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない」という神様のことばです。かかしだ、と。日本の感覚だと思い浮かべやすいかもしれませんね。人のかたちをしたものでしかない。歩くこともできない、運ぶしかない。それらを守るために置かれていても、しょせんは人の姿を、思いを繁栄させて作ったものにすぎないのです。野鳥などから、確かに多少はかかしは畑を、農作物を守ることはできるかもしれませんが、限界はあります。人の心までは守ることはできません。人の必要、不安になった時、彼らはあなたを助けにくることも、守ることもできません。

 

言われてみれば、冷静になって考えてみればその通りでしょう?それを否定すると、自分の根っこにあるものを否定されているようで嫌だ、と言われるかもしれませんが、あなたを作り物、まがい物で支配させてどうしますか。神様は「そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ」と仰られていますが、要するにそんなものに心を支配させてどうする、あなたに幸いはおろか災いさえ降せないじゃないか、と。そうなんです。意外に思われるかもしれませんが、災いさえ降せないんですよ?しってます?私も一瞬そうだっけ?と思ったのですが、それはそうです、彼らは生きていないのですから。

 

ただ問題はそこにあるわけではないのです。人は災いを恐れて、自分に何か嫌なことが訪れないよう、それに力があるとされている〇〇の神を求める、自分を成功させる神を求めるわけですが、彼らはあなたに成功させることも失敗させることもできません。彼らは生きていない。そんなものに自分を委ねてどうします?神様は人の手でつくられるものでも、人の願いを叶えさせる召使でもありません。これ、本当にクリスチャンを含め、多くの人が陥ることなのですが、神と呼びながら、気が付いたら召使にしていることが往々にしてあるわけですが、神様は主なのです。そしてその主なる神様があなたを造られたのです。この神様があなたを神様のイメージに似せて造られたのです。神様がその霊を注がれ、愛を注がれ、あなたを形作り、輝かせてくださるのです、神様のいのちで。

 

神様はあなたに幸いがあることを願われるというよりも神様の降さる全てが幸いなのです。世が災いをどんなにあなたにもたらそうとも、神様はこれらに打ち勝つ方なのです。神様は何もできない神様ではない、この天地万物をすべ治め、日々あなたを守られている、その中で今日あなたがここにいるのです。その神様から離れていく事が結局災いの道を進むことになるのです。神様はあなたに生きてほしいのです。あなたの不安を喜びに変える方、死をいのちに変える方、あなたの人生を丸ごと新しくされる方なのです。

 

エレミヤは「主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。諸国の民の王よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです」とこの神様のことばを受けて告白します。

 

確かに今エレミヤの預言している時代はバビロンの王という当時最強の王が差し迫っている、取り囲んでいる時です。それによって民の心は水のようになり、もう立ち行かなくなる、不安や恐れでいっぱいになった事でしょう。しかし、それらの王は神様の御前で何をすることもできません。バビロンは確かに自分たちの力でイスラエルを奪い取り世の覇権を握ったつもりでいますが、彼らの力はいつまでも続きませんし、支配したつもりが、神様がむしろネブカデネザルを含め、バビロンの王たちを屈服させ、彼らは神様の存在を認めざるを得かったのです。あなたを支配する王が立ちふさがるから偶像に頼る、でも、そうじゃないのです。それらは神様の前に何もすることはできません。最後は滅びゆくだけです。

 

しかし神様はそんなまがい物に、偽物に支配させるのではなく、あなたを取り戻すために、救いに来られた、本物の生きた神様はあなたの救いとなるために来られたのです。御子イエス様を私たちの間に住まわせて下さり、その愛を現して下さった、癒してくださった。でもそれだけで終わらない、一時的な回復で終わるのではなく、完全な救いをもたらすために、完全な命をもたらすために、御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、この復活の恵みに与ら褪せていただける、罪人としてではなく神様の子として迎え入れられるのです。

 

このイエス様の復活のいのちがあなたを今日生かして下さっている、この愛があなたを覆っているのです。このイエス様が今日あなたと共にいるのです。あなたを災いではなく救い、いのちへと変えるためならそのいのちさえ惜しまず与えてくださったイエス様がいる、これ以上の希望がどこにあるでしょう。息のないものではなく、あなたのためにいのちを惜しまない神様があなたを日々養い、守られ、導かれるのです。この神様の愛に並ぶものはない、この神様のもたらしてくださったこの新しい命に並ぶものはない。私たちはもう息のないものに心を奪われるのではなく、この神様の命、究極の愛に包まれ、生かされ、歩もうではありませんか。神様のいのちが、愛が、ここに、全地に溢れ渡ることを切に祈り。