―コウノトリも知っていること2:知ってくださっている方がいるじゃないか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。どうして、あなたがたは、【私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある】と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、【平安だ、平安だ】と言っている。彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、彼らの刑罰の時、よろめき倒れる』と主は仰せられる。『わたしは彼らを、刈り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。』どうして、私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、主が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。『ダンから馬の鼻息が聞こえる。その荒馬のいななきの声に、全地は震える。彼らは来て、地と、それに満ちるもの、町と、その住民を食らう。見よ。わたしが、まじないのきかないコブラや、まむしを、あなたがたの中に送り、あなたがたをかませるからだ。―主の御告げ―』私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。『主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか。』『なぜ、彼らは自分たちの刻んだ像により、外国のむなしいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。』『刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。』私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。」

エレミヤ書8章7-22節

 

私たちは誰かに覚えられていること、これほどうれしいことはありません。他の誰が忘れても私は忘れないからね、という言葉をもらった時ほど気持ちが晴れたことはない気がします。でもこんな自分を一番知ってくださっているのが神様。まあ名前だけ知っているよ、とかそういうレベルではなく私たちの全てをご存じで、知ってなお愛を注がれ、あなたに生きてほしいと願っている。あなたの帰りを待っているのです。帰る場所がある、何と感謝なこと、今こそ神様に帰ろう。あなたを養い守られ導かれる神様が待っているから。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は私たちに悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。倒れたあなたを起き上がらせ、新しい季節へと招かれる神様がいるから。

 

神様はなおエレミヤを通して「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」と語られます。このこうのとりについてですが、神様が定められた教えの中で「忌む嫌うべきものとしなければならない」と取り上げられているものの中に、この「こうのとり」も入っているのです。そのようなものさえ神様は受け入れてくださる、というのです。

 

彼らは何を知っているのか。本能?ではその本能を与えたのは?何を見てその本能で察知するのか。それは神様の定めです。こうのとり然り、ここに取り上げられている渡り鳥は移動する季節や自分の巣に帰る時を知っています。彼らはみな「巣」に「帰る」帰巣本能を持っています。神様が確かにそのように造られ、その造られた神様、この自分たちを養ってくださっている神様に彼らは委ね、帰るのです。

 

イエス様はある時「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と仰られました。

 

神様は忌み嫌うべきと言われていたこうのとり然り、種まきもしなければ刈り入れもしない、倉にさえ納めず生きる空の鳥さえ養ってくださっている。これを彼らは知っている。神様に委ね、その季節になれば帰るところに帰る、そうして生きているのです。神様の巣、そこに命が、帰るべき場所がある。神様は遠く離れたこうのとり、渡り鳥、小さな鳥さえ発見し、その巣に迎えてくださり、なお養ってくださるのです。

 

でも、それは動物や鳥に限った事ではないことをイエス様は仰られた、いや人はそれらの鳥よりもはるかに勝っているではありませんか。「どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる」と神様は仰りますが、自分たちが何を知っているというのでしょう。自分にはこれがある、あれがあると言っても、どうしてあなたを今日生かし、今日養ってくださっている神様を見ずに、自分は何でも知っている、知者だと言えるでしょう。

 

人には良心があるので、なんとなくあれはしてはいけない、これはしてはいけない、それはよくない方に向かわせる気がする、という感覚を持っています。律法とありますが、これはそういう感覚に「近い」と思ってもいいと思います。神様が今や律法を心に刻んでくださっているのですから。ただ、していい、してはいけない、にとらわれて神様がどこに導こうとしているのかに耳を傾ける、神様を求めない限り、それがあなたを捕えて終わるだけです。しかし神様を求める時、神様の導きを求め神様に帰る時、神様の季節が広がる、律法の本質である神様の幸せを神様があなたの内に現して下さるのです。

 

倉におさめない鳥を養われる神様は、ただいいよいいよ、帰っておいで、で終わるのではなく、彼らの空になった倉、お腹もそうですが、心の蔵も神様でいっぱいにしてくださる。ただ食べ物を与えるだけではない、神様の安心感が、神様ご自身で彼らの蔵を満たして下さっている。その鳥よりも、あなたは優れたものなのです。刈り入れることもできないような状態の私たちのために、神様ご自身があなたの内に、あなたという畑にその愛の種をまかれ、いつか私たちはそれを刈り入れさせていただけるのです。

 

神様は↑で「わたしは彼らを、刈り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする」と仰られていますが、これを聴いて皆さんはどう感じますか?神様は、神様ご自身の内にあなたを刈り入れて招きたいんです。なんと感謝なことでしょう。でも私たちが実を実らせていないのでもう見捨てる、なるがままにする、なんてされたら悲しいじゃないですか。

 

実らないだけならまだいい、いつかは実ることを期待できるかもしれません。しかし何かを実らせる、その質を決める一つは土壌であり、また植えれば勝手になるわけではなく、水をあげ肥料をあげる人が必要です。放置されたら本当にしおれ行くだけです。土壌が問題があると移し替えてくれなくなったら私たちはその土壌の影響を受ける、世の様々な流れにあなたは飲み込まれ、本物の神様が与えようとしている恵み、実らせようとしている実を失う、神様があなたを最高のあなたにしたいと日々整えようと水をやり、肥料をやる神様からその水、肥料をとり上げてどうします?もちろんその水や肥料の質も大事ですよね。神様は最高の水と肥料をもってあなたをしおれ、落ちていくものではなく、あなたを「生かして下さっている」のです。

 

神様は、あなたを刈り入れたい、その思いをあなたはどう受け止めますか。自分が神様の恵みから離れていく事を別にと考えるか、それとも↑でこの状況を見て、「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている」というエレミヤのように悲しんでいるでしょうか。いつまでも救われない、と人は言いますが、神様はあなたに御手を伸ばされているんですよ?自分にあれがない、これがないの前に心からこの自分の状態を嘆いて、神様に帰っていますか?

 

エレミヤは「乳香(傷を癒す薬)はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか」と言いますが、そこにあるんです。いらっしゃるのです。最高のドクターが、薬が。傷を癒すためにそこに神様は負られる、ここにおられるのです。けがをしたら、病気になったら病院に行くでしょう?それなのにどうして私たちは自分たちの魂が傷ついているのに、神様を求めないのでしょう。そんなことはないと人は言いますが、本当は気づいているでしょう。自分の心が傷つき倒れていることを。精神的なことだけの話ではないですよ?自分はこんなはずがない、と思う人もそうです。

 

そうなんです、こんなはずはないんです。なぜなら、神様があなたを造られたのにその神様から離れたら、神様の最高のご計画からは離れている、こんなはずはないという状態なのです。そんな私たちの医者となられたのがイエス様。イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と仰られましたが、私たちは神様なしでは生きられない、その私たちが霊的な健康、丈夫さを失っている私たちを回復させるため、罪によって、神様から離れ健康を失った私たちをもう一度取り戻すため、神様は御子イエス様に私たちのそれらの痛み、悲しみ、傷、何より罪一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされるのです。悲しみは癒され、立ち上がらせていただける、新しい命に招かれるのです。

 

医者は必要ないとたまに強情を張る人もいます、まあそれはそれでしょうが、しかし私たちは神様なしでは生きられません。神様は実を結ばないからと捨てるのではなく、刈り入れるため、イエス様のいのちという肥料と言いますか肉、水と言いますか、イエス様の血潮を流されたことによって、そこまでしてあなたを今生き返らせようとしている、実を結ばず枯れ果てた私たちを新しくしてくださったのです。そこまでされたこの新しい命、私たちは神様に向かって真っすぐ歩もうではありませんか。神様を求め、神様のいのちが、御霊様があなたの内に満ち溢れたこの命の内を今日も歩ませていただこうではありませんか。ここに神様の愛が、全てが溢れているから。