―他にはない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、『あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか』と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。【あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった】というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』」

使徒の働き4章1-12節

 

何年か前、某政治家が「〇〇以外は道はないのです!」と高らかに叫んでいたのを覚えていますが、あなたはどれだけの道を知っているのか、あなたは神のつもりか、と思わず突っ込んでしまいました。だから他に〇〇はない、などと書くと傲慢、と言われてしまうかもしれない。でもそれを恐れて正しいことを言えない、なあなあにして何になるでしょう。イエス様はなあなあな関係ではなく罪をはっきり語られ完全な救いへと招くため語り続け、その愛を曖昧にされることなく私たちを救うために、十字架に私たちの身代わりにかかられ罰せられ死なれた。これ以上の愛はどこにもない、私たちは今こそ真剣な神様に帰ろう、他にはない神様の救いがここにあるから。

 

さて、↑はイエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した、それから少し経ったある日の話です。使徒ペテロとヨハネが宮に祈りに向かう途中、生まれつき足の萎えた男性と出会い、彼をイエス様の御名によって癒した、立ち上がらせた後の話です。この奇跡を目撃し、またイエス様の救いの話を聞いたとき、そこに集まる多くの人、男性だけでも5千人の人たちが救われたのでした。当時は数えられることがなかった女性を入れたら数万人はいたでしょうね。

 

ここで面白くないのがイエス様を自分たちの立場を脅かすものとして忌み嫌っていた宗教家たちがこれに腹を立てます。せっかくイエスなるものを十字架に架けて死刑にしたのに、よみがえり、しかもこのイエス様の復活を高らかに語る彼らに人気が出ていることに腹を立てるわけです。そしてペテロとヨハネを逮捕します。

 

以前のペテロでしたら、イエス様が捕まった時のように逃げだしていたでしょう、しかしもうペテロにはそんなところはありませんでした。彼は逃げることなく捕まります。確信のない話ではない、神様の事実を彼は知った、神様のいのちを、救いをいただいた、その彼にとってはイエス様の救いは否定のしようのない事実だったのです。

 

宗教家たちなど、自分たちの権威にこだわっていた者たちはこぞってペテロたちを「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と言って責めます。彼らは自分たちの許可のないことは話してはいけない、そういう権威があるんだ、と言いたいわけです。まあ、それをイエス様に同じ質問をして自分たちにこそ権威があるという彼らをたしなめて、神様の権威ある、力ある御業のもとに遜るよう訴えられたのに、まだ彼らは分かっていない。

 

そもそもそういうあなた方にでは権威はあるのか?自分たちの地位にすがりついて、他の民を苦しめ、神様に本来とりなすはずの立場のものが神様を否定し、神様という権威を否定する。彼らは神神言っていますが、神などひとつも求めていなかった、神様が送られたイエス様を否定し殺し、神様の救い主という権威をもって送られた、人となって生まれてこられたイエス様を十字架に架け、彼ら自身神様を否定したのです。

 

そこでペテロは「…この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。…この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と答えます。それは自分の思いを語ったものではなく、聖霊に満たされたペテロの口から語られた言葉なのです。

 

ある人が面白いことを言っていたのですが、この使徒の働きを読む限り、「聖霊をください」、「聖霊で満たしてください」と祈ったらそうなった、とか、「私は聖霊に満たされました」と言った記述もありません。聖霊様の働きは確かにそこにある。人が何かすごいことをしたいから、聖霊様をください、と祈るのではなく、聖霊様の働かれるところに驚くべきことが起こるわけですね。ペテロたちにそんな知識があったわけではありません。しかし、聖霊様によって今イエス様の確信を得るのです。

 

そう、ここでペテロが訴えるのは自分が優れているとかそういう話ではない、すべての権威は神様の内にこそあるのです。神様の権威のもとにだれも勝ることはできません。神様は私たちをはじき出すのではなく、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト」様はあなたをむしろ受け入れようと、十字架上でさえ私たちの罪の赦しを懇願されたのです。これは誰でもできる話ではない、何の罪もないイエス様が負われたからこそ意味があるのです。罪人が身代わりに罪を背負っても代償にはなりません。何より神の御子がこれを背負われた、友のためにいのちを捨てられた、これ以上の愛がどこにあるでしょう。

 

ペテロははっきりと「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と語りました。傲慢でも曖昧でもない、イエス様以外に救いはないのです。罪の赦しをいただくにはその相手の赦しが必要でしょう?神様は私たちの罪の赦しのために、御子イエス様のいのちを身代わりにされた、何の罪もない御子イエス様を。そして私たちの罪の身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦される、神様の子として、唯一の、完全な救いへと、いのちへと招かれるのです。永遠のいのちへと。中途半端な赦しではなく完全な救いによって完全な赦し、完全な神様の愛の内に招かれたのです。いいよいいよそのままで、で滅びていくような不完全な権威者の示すものではない、完全な権威ある方が完全な救いを成し遂げてくださったのです。

 

神様は、何の罪もない、神の御子イエス様のいのちをもって完全な救いへと私たちを招かれたのです。そこには他にはない、神様の完全な愛が溢れている。このイエス様の御名に勝るものは何ものはありません。完全な神様の救いの内にこそすべてがあるのです。私たちはこのイエス様以上にだれに救いを求められるだろう。私たちに何かあれば離れる、いい時は一緒、そんなものではなく、完全なこの救いの前に今一度へりくだり歩みたいものです。あなたがイエス様の前に権威があるのではなく、イエス様があなたの前を進まれ、あなたを今日も導かれる、このイエス様の大いに期待しよう。