―倒れたままでいいの?コウノトリも知っていること― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは、彼らに言え。主はこう仰せられる。『倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、【私はなんということをしたのか】と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。…』」

エレミヤ書8章4-8節

 

倒れたら、起き上がる。これ、不思議なことに赤ちゃんもするんですよね。倒れたら倒れたままでいるよりも起き上がります。また道を間違えたなら、引き返せばいい。もう一度帰るところに帰ってやり直せばいいんです。ただ、別に自分は自分だから、と間違えた道を進み続けたらどうなるか、目的地にもたどり着けず、さ迷うわけです。人のアドバイスを聴く、これ大事ですね。時には立ち止まって聴く。何より誰がどんな思いで語っているのか、これも大事です。何となく自分の意見を押し通したいだけの人もいますし、必ずしもそれが正しいとも言えません。神様は、あなたを倒れたままにしませんし、あなたをいのちの道へと導きたい、本来のいのちの内を歩んでほしいと今日も語っておられます。あなたを諦めず、御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどに、あなたを惜しみ、その愛を注がれているのです。この神様に今日帰ろう。この神様が今日あなたと共におられるのだから。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は「…主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう」と、悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。

 

なお神様はエレミヤを通して「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」と語られます。

 

7章で神様は「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ」と民を断罪していました。もう見捨てられてもおかしくない、その中で神様は今、「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか」とそれでも、という思いを今注ぎだされ、語られているのです。神様はそれでも語ることをやめない、「悔い改めて帰ってくること」を神様は何よりも願っておられるのです。それは、倒れたままでいる姿を神様は黙って見過ごされる神様ではない、道に迷いさ迷い続ける私たちを黙って見過ごされる神様ではなく、その道に迷った羊、私たちを家に連れ帰り、喜ばれる神様なのです。

 

人は倒れたら起き上がり、離れたら、帰って来ます。倒れたままずっとそこにいるようなことはしません。勿論、起き上がりたくても起き上がれない場合は別ですが。それがある意味で人の道理というものなのかもしれません。ただ、起き上がりたくても起き上がれない、人の道理を超えた神様の愛がそこには働かれるのです。

 

かつての古代イスラエル王国3代目の王ソロモンは、「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう」と、その書に書き記しています。彼はとても大切なことを体験していた、若くて周りからの信望がない中にあって、神様が助け主となってくださった、神様が全ての必要を与え、神様が助け手をさらに送ってくださったことを。あなたの労苦を、あなたのくびきを一緒に負ってくださるのがイエス様であり、倒れたままにされず一緒に起き上がらせてくださるのがイエス様、寒くてつらいあなたを温めてくださるのもイエス様。

 

人の道理としてはそんなことをして当たり前、倒れたなら起き上がりなよ、道に迷ったなら自分で引き返してもう一度やり直しなよ、といったところですが、神様は人の道理で動く方ではない、神様は7章で見たような自分勝手に生きるような彼ら、私たちをもそれでも、かえってくるのを待っておられる。門を閉ざさず、その門に立ってあなたを迎えようとされるのです。7章の最初、この預言の最初に神様が「主の家の門に立ち、そこでこのことばを叫んで言え。主を礼拝するために、この門に入るすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう」と訴えられたように。神様は門のところで今日もあなたを待っておられる。いや帰るあなたに駆け寄り、抱きしめてくださるのです。

 

これ、適当に自分の願望を書いているわけではありません。イエス様がされたいくつかの話の中で確かに仰られているのです。まず倒れたままでいる姿を神様は見過ごさない、ということですが、イエス様のたとえ話の中で、強盗に襲われた人の話があります。立派な宗教家たちはこれを見て、宗教的な道理で触れないとか、自分にも身の危険が及ぶのではないか、とそう言い訳をつけて離れていったのです。しかし、サマリヤ人というユダヤ人から嫌われていた人は彼を起こし、癒し、自分の乗っていた家畜に乗せ、自らその綱を引き宿屋で休ませます。しかも彼の治療費、宿泊代、その他必要な一切を彼は払う、と。そのサマリヤ人こそイエス様でした。イエス様は、どんなに裏切られようとも、それでも倒れたままにせず、起き上がらせ、それだけにとどまらず私たちを回復させてくださるわけです。

 

また別のたとえ話の中で、イエス様は「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と語られました。

 

神様はたった一匹、あなたを神様は惜しまれるのです。そこで神様はイエス様に探しに行かせます。どんなに苦難困難な時代、荒波の中であっても、危険があっても、自ら傷つきことさえ気にかけず、迷子の羊を最後は抱いて連れ帰ってくださり、起こるどころか、一緒に喜びお祝いしてほしい、というほどなのです。その喜びは天に溢れるのです。あなたが救われる、命を得ることほどうれしいことはないのです。そのためにイエス様を遣わすことを神様は惜しまなかったのです。

 

このたとえ話はまだ続きがあって、最後に放蕩息子のたとえ話をイエス様はされます。お父さんには2人の息子がいたのですが、弟息子はある日、父親が死んだら得られるはずの財産を自分に今分けてほしい、と訴えるのです。生きている父親に向けて。それでも父親はそんなに言うなら、と彼に渡します。そして弟息子は街に出て、湯水のようにその財産を使い果たしていきました。しかし、ある時飢饉がやってきて、彼は食べるにも飲むにも困り果てる、助けてくれる友人はいない、働き口も豚の世話くらい。絶望した彼はある日、父のもとに帰ろう、自分の罪を悔い改めて家に帰る決断をします。

 

一方お父さんは、それでも息子を、自分勝手に出ていた彼の帰りを心配し待っていました。その中で弟息子が家に帰ってくる、ボロボロになった姿を見たのです。息子はまだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです。汚らしい、とは思わずに彼を抱きしめ、口づけしたのです。彼が「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と悔い改めを告白すると、お父さんはなら使用人としてなら迎えよう、ではなく、彼を赦し、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って祝宴まで開いたのです。

 

普通に考えたらあり得ない。でも神様はそれでもあなたに生きてほしいのです。神様の本物の恵みで、ここでは一番良い着物、指輪、靴とありますが、神様の最高の恵み、地のものではない、天の、言い尽くし難い神様の愛で覆われるのです。そのいのち、死んでいたものが生き返る、というその生き返らせたのは何か。肥えた子牛です。神様は最高の子牛を屠られたのです。誰をですか?それは神の御子イエス様です。イエス様を私たちの罪を赦し、神様の子として回復させるため、神様は何の罪もない、肥えた子牛イエス様を私たちの罪の代価として身代わりに十字架に架け、死なせたのです。そしてそれを分けられ、分かち合い食べたように、イエス様のこの十字架による救いを受け取り食べる時、私たちは生きたものとなるのです。3日目によみがえられたイエス様の復活の恵みに、私たちもあずからせていただける。私たちの内にイエス様が住まわれるのです。その門の中に招き入れてくださっているのです。

 

神様は「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」と仰りますが、彼らがそれらを知っているのは、神様がその季節を知らせてくださり、行く道を示して下さる、他の鳥たちも帰るべき時を知っているのも神様が知らせてくださっているからです。神様を求めるところに知恵があり、いのちがある、神様の恵みが広がっているのです。

 

神様はそれさえ気づかずにさ迷う私たちを探し出すため、イエス様を遣わされました。私たちはもう神様から離れてやみの中を歩むのをやめ、神様の季節、いのちの道に立ち返ろう、新しい季節、神様の恵みに私たちは生かされ歩もう。こうのとりたちを導く神様があなたを知らないはずがなく、むしろあなたを迎えるためなら御子イエス様を惜しまなかった、そのイエス様のいのちにあって新しく始まる季節に私たちは大いに期待しよう。私たちはイエス様のいのちにあって分け与えられたこの恵みを日々頂き歩もう。