―心― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『あなたがたが、【何のために、私たちの神、主は、これらすべての事を私たちにしたのか】と尋ねるときは、あなたは彼らにこう言え。【あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる。】ヤコブの家にこう告げ、ユダに言い聞かせよ。さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。あなたがたは、わたしを恐れないのか。―主の御告げ―それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った。彼らは心の中でも、こう言わなかった。【さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる】と。あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。それは、わたしの民のうちに、悪者たちがいるからだ。彼らは、待ち伏せして鳥を取る者のように、わなをしかけて人々を捕らえる。鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む。彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。これらに対して、わたしが罰しないだろうか。―主の御告げ―このような国に、わたしが復讐しないだろうか。恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。』」

エレミヤ書5章19-31節

 

心、というものが人にはありますね。これは目には見えません。ただ、それは人の行動に現れます。言葉にも、行動にも。これは隠そうと思ってもどこかで出てきてしまう。そういう意味では心に何が満ちているのか、それが大事なように思えます。あなたの心には何が満ちていますか?喜び?怒り?悲しみ?〇〇心とよく言いますが、この○○に今あなたは何が入るでしょう。あなたの心はどこに、誰に向かっているでしょう?神様はあなたへの愛でそのお心はいっぱい、あなたにその愛を向けられています。あなたに生きてほしい、と。私たちは今こそ神様に心を向ける、立ち返り、神様の注がれている恵みに生かされ歩もうではありませんか。この神様があなたのいのちを広げてくださるのだから。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していった言葉になります。エレミヤは世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて神様は語り始めます。彼らが背信の子と分かっていてもそれでも彼らが立ち返るよう、我が子よ、と訴えながらあなたを父なる神様の子、真の親子関係へと回復させよう、と訴えるのです。神様の家族へと。古い汚れを洗い聖めていただき、新しい命に生きるように、神様もその御翼で私たちを覆い守られ導かれるから、と。だから今、地を行きめぐり、神様を求めている人はいないか、また神様の恵みを見よ、絵空事ではない本物の恵みに招かれるのです。

 

神様はなおエレミヤを通して「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべての事を私たちにしたのか』と尋ねるときは、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる。』」と語られます。

 

「何のために、私たちの神、主は、これらすべてのことを私たちにしたのか」と民は語っていると言いますが、これらすべてと言うところが少し引っ掛かります。すべてのことに対して不満を訴えているのです。今イスラエルの民はバビロン捕囚に向かうという宣告、罪をしてきたされた状態にあります。それはさも神様が悪いかのような言い草ですが、それは彼らの罪のためでした。じゃあそれを言わなければよかったのか。5章前半で分かち合わせていただいたように、神様は黙って滅ぼすことをしようと思えばできるのに、それでも憐れまれ、何とか命を得てほしいからと、語られているわけです。憐れまれる神様なのです。「心」という点で見るなら、神様は憐みに満ちた方です。それゆえにあなたが生きるために語る。黙ってこの危険を見過ごす親などいません。

 

民はここで、「私たちの神」と言う言葉を使っていますが、自分の思う通りになる神を神様とある意味で呼んでいるのです。私の神。自分に仕える神。自分の思うようになる神、願いを叶えそうなものを神と据える。そうして彼らは神様が今「あながたがの国内で、外国の神々に仕えた」と指摘されるように、彼らはそれらを崇拝、というよりも自分の願いを叶えさせようとあれこれ様々な偽神に手を出すのです。しかし、彼らは生きもなければ何かをすることもできません。人に運ばれ、人に磨かれ…それが神なのでしょうかね。自分のご利益のために人はそれをするのでしょうけど、人に何かをしてもらうしかできない「もの」が神なのでしょうか。むしろ逆にそれに心をとらわれ、あなた自身支配されていきます。それでいいのでしょうか。

 

ただ、私たちはよく逆転しますが「主」は私ではなく、神様なのです。聖書では、これをあるじとは読みませんが、あるじというと日本ではわかりやすいでしょうかね。主権は神様にあるのです。しかしその神様はなんということを私にしてくれたんだ、という事をされる方ではなく、あわれみに満ちた方なのです。ひとにとっていいことをしてもらったとかんじても、ある時はそう感じない、そうして神様は自分に良いことをしてくれないという変な評価を人はくだしますが、神様は人に評価されて変わる、変えなければいけない存在なのですか?神様が主なんですよ?神様はそれでも「これらすべて」、全ての良いことをなして下さるのです。

 

神様はそのような民に向けて「あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる」と語るようにエレミヤに告げますが、それはバビロン捕囚が確実に起こる、という事。しかしそこで神様は見捨てる、とは一言も言っていませんね。民が神様を捨てた、という事実は語られていても、神様は彼らを捨てるとは仰られていないのです。神様はそれでも多くの助け手を送りました。預言者を置いたり、宦官の中にイスラエル人の正しい人を置くことで民を守らせ、民族壊滅の危機から救ったり、なんと人となって生まれてくる前のイエス様まで彼らを助けにくることもありました。人の常識では考えられない方法で何度も民を救い、心を守り、ついには70年後にバビロン捕囚から解放される。

 

神様はそのような中で仕えるように彼らの内に働かれる神様を見、神様に立ち返る、神様に仕えるよう、この神様に遜り生きるよう訴えるのです。他国人に仕えるような中にあっても、どのような状況にあっても「これらすべてのこと」、神様の全てのよきものを現して下さい、と。そうして事実、神様を知らなかったバビロン人の中から神様を信じる人が現れ、後に彼らの中からイエス様を求めてイエス様の誕生を知った人たちが訪問することになります。神様は目に見えない中でも驚くべきことをなして下さっているのです。

 

私たちは私たちに利益をもたらすことだけに頭が言って、心がいっぱいになっていて、自分に仕える、自分の思い通りになる神を求めていませんか?それは神様を侮っていませんか?神様は私たちの想像をはるかに超えたことをなされる神様です。

 

神様はさらに「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。あなたがたは、わたしを恐れないのか。―主の御告げ―それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った。彼らは心の中でも、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる』と。あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ」と語られます。

 

私たちは神様の偉大さをどこまで知っているでしょうか。神様はここで、人の逆らう心にについて、海の境に例え語られていますが、自然界は、天地万物が造られて以来、みな神様に従っています。私たちには日本地図がありますが、江戸時代に測量をした伊能忠敬氏の地図は非常に正確で、現在のものと大きな差はありません。波は激しく岸辺を打っているにも関わらず、変わることがないのです。まあ人の自然破壊などでその神様が造られた境を破壊されているのも現状ですが。しかしその結果何が起こっているのか、自明な話ですよね。神様は天地万物すべてを造られた後、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と仰られました。神様は完全な良いものを造られたのです。

 

私たちは神様を超えたものを求める、ないし自分を神様より優れていると考えますが、しかし私たちがどうして神様を超えられるでしょう。神様はあなたの神様となられ、どれだけ素晴らしいものを、日々を与えてくださっているか考えたことはありますか?私たちの目は何を見、耳は何を聴いていますか?その心はどこに向いていますか?神様が良いものを与えない、狭い人生しか与えない、と思っていませんか?しかし神様は私たちが定める領域をはるかに超えてその恵みを注がれるのです。むしろ私たちが神様を追い出して「その末には、あなたがたは、どうするつもり」ですか?あなたが自分で定めた領域では多くの問題が、サタンがあなたを襲い、あなたが彼らを利用するつもりが、最後はあなたが利用され、奪われる。神様はそのような末を心配されているのです。自分勝手にその行く末に滅びていく事を神様は悲しまれるのです。

 

だからこそ、神様は今語られるのです。語られるだけではなく、彼らが捕囚される日、苦難の日もそこにおられた、その救いを現しに来られたように、御子イエス様を私たちに遣わして下さり、私たちの間に光を照らし、その愛を現されました。彼らの、私たちのいのちを、失われたいのちを取り戻すために。私たちの身代わりに私たちの重荷痛みも、罪も一切を背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされるのです。

 

あなたのためなら御子イエス様のいのちを惜しまない神様の愛が今日あなたに注がれている、あなたのいのちを、その地境を広げてくださっているのです。あなたのためにこれらすべてのこと、良いことをあなたにされたイエス様に今日立ち返ろうではありませんか。神様が広げてくださった、新しくしてくださったこのいのち、ここに神様の恵みが溢れるように。この心がいつも神様の喜びで満たされるように。この神様から離れず今日も歩もう。