―金銀がたとえなくとも、それらに勝るもの― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」

使徒の働き3章1-10節

 

私たちには様々なものがありますが、ないものに目が行くことがしばしばです。しかし、ない、と思われる中で最も大切なものがある事を忘れてはいけません。そう、神様です。もの、ではありませんが。私たちはあきらめてはいけない、神様が成されることに大いに期待しよう。神様に不可能はない、だから私たちは神様に委ねることをやめてはいけない。

 

さて、↑は神の御子イエス様が昇天されて、新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した後の話。ある時、使徒ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行きました。午後3時の祈りとありますが、ユダヤ人は朝の九時とお昼の正午、そして午後三時と一日に三回祈りました。この三時というのは宮でいけにえがささげられたので、敬虔なエルサレム市民はみな、宮にもうでて祈っていたようです。ペテロとヨハネも、どんなに今多くの人が救われて忙しくなっても、それでも祈りをささげることを忘れずに今宮に上っていきます。そこで神様の素晴らしい体験をすることになるのですが、私たちは祈ること、神様の御前に進み出ることを忘れてはいけませんね。そこで神様は何かと出会わせてくださる。神様に出会わせてくださる。神様の大いなることを見させていただける。あきらめてはいけませんね。あなたは神様の愛によって包まれている大切な存在なのですから。

 

そんな中、生まれつき足のきかない男性(40歳)が宮に入る人々から施しを求めるために、毎日「美しの門」(東門)と言われる宮の門に運ばれてきました。そこは異邦人の庭です。

 

 

そこに祈るために使徒のペテロとヨハネが宮に入ろうとしたとき、その男性は使徒たちに施しを求めたのでした。とりあえず今日1日生きられれば、と一縷の望みをかけて。彼は、今日一日を生きるのが精いっぱいだったのです。そして今、使徒ペテロとヨハネに出会うのでした。

 

彼はただ、ペテロたちだろうが関係なしに、今、施しを求めます。しきりに施しを求めます。彼は必死だった、それでも彼は生きたい、と願って。その彼を見たペテロとヨハネは、施しをするのではなく、「見なさい。…金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と彼に語ります。

 

見なさい…それは、心を向けなさい、という意味のことばで書かれているそうで、彼の心をペテロたちに向けさせます。いや、ペテロたちがすごいだろ、と言われるためではなく、今彼の内に働かれる聖霊様の働きに目を留める事、神様が成される大いなることに心を留めるように今訴え、彼に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」というのです。

 

ペテロたちに本当に金銀がなかったのか、それは分かりません。金銀、とまでいかなくとも施しをすることができないほどに何も持っていなかったのか、と言われたら疑問が少し残ります。ただ、ペテロたちは金銀に勝るものを彼に与えるのです。それは、救いです。ここで癒されて、社会復帰できることが彼にとってのプラスになる、とかそういう話をされる方もいるのですが、もちろんそれはそうなんですが、本質はそこにはありません。彼を復活のいのちに、イエス様の救いにペテロたちは招かれたのです。一時的に回復してはい、終わり、ではなく、永遠の神様の養い、いのちの内に彼を招かれたのです。

 

ここで「歩きなさい」と使われている言葉は、よく調べてみますと「立ち上がって、歩きなさい」という言葉になっている、しかもただ立って、というわけではなく、死んだ者がよみがえることに使われる言葉になっているのです。聖書の中で死者を生き返らせるという奇跡が行われることがあるのですが、その時に使われる言葉がここで今語られている。イエス様がかつて使われたその言葉をもって今、この男性を立ち上がらせるのです。

 

それはペテロたちの奇跡によるものではありません。「ナザレのイエス・キリストの名=イエスの御名」によるのです。それはイエス様の十字架と復活による罪の赦し、このイエス様の救いを受け入れる時に与えられる、復活のいのちです。ある人は、それが何の得になるのか?金銀の方がましではないか、というかもしれない。自分が望むものが無ければそれはないに等しいではないか、という人もいるかもしれない。

 

しかし、私たちはイエス様の救いを、その御名を侮ってはいないだろうか。何の罪もない神の御子イエス様が、私たちが負うべき痛みも重荷も、罪の刑罰も一切身代わりに引き受けられ、十字架に架けられ、身代わりに罰せられ、死なれたという事実を。そして3日目に、死という、完全に終わっている状態、何もかも失われたはずの状態から、よみがえらせていただいた、その完全な死から新しい命へと移し替えられたのです。それほどの愛が、いのちが、このイエス様の御名によって注がれるのです。完全な死から、新しい、復活のいのちへ。

 

ペテロたちが彼の手を取り、立ち上がらせると、「彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりし」始めます。まさに、イエス様の御名によって、新しい命の息吹が、復活のいのちがくるぶしから全身に至るまで満ち溢れさせ、彼の絶望感を喜びの賛美に変えたのです。聖霊様が彼の内に満ち溢れ、その節々を強くし、新しい彼へと変えられていったのです。そして彼はじゃあさようなら、と彼らから離れていったのではなく、ペテロたちと一緒に宮に入っていった、「神様の宮」、神様の家族として招かれた、そのいのちに生きる決断をしたのです。癒されてはい、終わり、ではなく、新しいこの命の内を歩みたい、と。イエス様の御名にはすべてを変える力がある。イエス様の御名以外において救いはないのです。

 

私たちはこの世の金銀、価値観と、イエス様を比較していませんか?あれをしてくれたら信じる、してくれなければ信じない、となっていませんか?してくれたらはい、終わりと元のいのちに帰っていませんか?私たちはイエス様の御名によって与えられる新しい命に歩ませていただこう。この瞬間だけではなく、日々あなたのくるぶしを強め、心を躍り上がらせ、賛美させていただける、この門をくぐらせていただこう。

 

最後に、この「美しの門」は、イエス様が十字架にかかられるために入られてきた門だそうです。イエス様と一緒に私たちは罪の死、そして新しい復活のいのちをいただいて、神様の注がれる、この世の金銀では買うこともできない、大いなる恵みの内を歩ませていただこうではありませんか。「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです」から。今日私たちは、あれがないこれがないではなく、イエス様の御名によって立ち上がり、歩かせていただこうではありませんか。