―帰っておいで― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『…もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。この国も大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、しかも、わたしのところに帰ると言っている。―主の御告げ―目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか』と。なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。』」

エレミヤ書3章1-5節

 

縁を切る、敷居を跨がせない、勘当、一昔前でしたらそうしたことばがよく聞かれました。それを言われたら相当ショックなのはもとより、その関係を戻すのは大変なものがあります。一度家族としたもの、されたものを引きはがすのはそれだけの傷ができる。だからこそ、その前に、その関係が正しく結ばれている筆意用が見えてきますよね。神様は私たちが本来神様から自分は自分と言って離れていってしまった私たちを、もう好きにすればいい、と断絶することはできたのに、それでも神様は御子イエス様を遣わされ、私たちを神様のもとに招いてくださった、断絶された関係を取り戻そうとしてくださったのです。イエス様ご自身の命を代価として。私たちはもう神様から離れてはいけない。神様が回復させてくださり神様の子として迎え入れられたのだから、この恵みから離れず歩みたいものです。神様がどれだけの愛を注がれているのかを日々覚え。

 

さて、↑は「ついで、私に次のような主のことばがあった。『さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ―』」と始まった神様のことば、婚約時代の、いや永遠に続く愛を願い語られた預言(紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間にエレミヤを通して語られた預言)、その最後の部分になります。

 

この預言の中で神様は、ここまで神様がそのような関係に招いてくださっていたのに好きなように離れて神様が結ばせようとしていた実ではなく悲しみの実を結ぶことへの嘆き、世の、罪の奴隷・縄目を負ってしまったことへの嘆き、彼らを何とか命あるものへ変えよう、聖めようとしていること、もう一度キリストの花嫁として迎えようとしてくださっている事を訴えてきました。

 

神様はなおエレミヤを通して「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。この国も大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、しかも、わたしのところに帰ると言っている。―主の御告げ―」と語られます。

 

神様がモーセを通して私たちに与えた律法によれば、「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない」とあります。↑で神様が仰られているのは、この律法からきているのです。

 

ただ、その本質は結婚関係の厳密さを神様は訴えているのです。もともと結婚自体は神様が定められたものであり、神様の御前で宣誓し、夫婦とされるわけです。結婚式で誓約する言葉はあれはどうでもいい型通りのものではないんですよ?神様の御前で誓い合ったのですから。何か嫌なことがあれば離れる、また気分が変わればよりを戻す、とかそういう曖昧なものにしてはいけない、と神様は律法で仰られていたのです。

 

パウロという伝道者は「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです…」と手紙で書き送ります。また神様ご自身もアダムとエヴァが出会った時、やはり「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と語られています。ある意味では独立。そして1つとなる、と。これは、当時の接着剤的なもので一番最強のものだったそうですが、無理に引き剥がそうとすれば傷がつく、というほどがっちり1つとなる、という言葉で神様は語られたのです。本来神様と私たちの関係はそのようなものであるべき、と。

 

イエス様もこの律法について質問されたことがあり、答えています。どういうものだったかというと、「パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。…イエスは答えて言われた。『モーセはあなたがたに、何と命じていますか。』彼らは言った。『モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。』イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、その妻に結びついて、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』」というものでした。

 

そうなんです。↑は、本来神様がどうにも引きはがせないほどの愛ある関係で私たちは愛されていた、それなのに、好き勝手に離れてしまった。もう戻ることは赦さない、という単純な話ではなく、本来の神様との関係は、その愛で結ばれた関係は切っても切っても切り離せないほどの神様の愛によって結ばれているはずなのです。2章でハネムーンの愛に例えられていましたが、神様は私たちと婚姻関係のように、しかも神様が引き離すことは赦されないと語られたその関係に私たちを招いてくださっていたのです。惜しむことのない愛を注がれていたのです。

 

神様のそれほどの愛によって繋げられている、その神様から離れて私たちが傷つく、世の勢力や思い煩い、罪に傷つき倒れることを神様は悲しまれる。だから、↑で神様はもう受け入れない、ではなく、だから離れないでほしい、と訴えているのです。北イスラエルが神様から離れていき、自分の幸せを求めた偶像、八百万の神などは彼らを助けず、結局北イスラエルはアッシリヤによって捕囚されていってしまった、もうあなたまでそうなることは我慢ならない、と今訴えているのです。

 

神様はモーセの律法でも語られたように、簡単にくっついては離れ、のような薄っぺらい関係ではなく、何物も切り離すことのできない命の関係、愛の関係に私たちが留まる、立ち返ることを願っておられる、帰っておいで、と訴えているのです。矛盾しているのではなく、神様はだから離れてはいけない、神様の愛はそこにある、だからもう離れてはいけない、と訴えるのです。

 

神様は↑で「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか」と仰るくらいですからもう私たちは赦されないはず…しかし、それを良しとして迎え入れてくださるのです。驚くべき愛を神様は私たちに注がれるのです。むしろ私たちを迎え入れるためにイエス様を私たちに遣わして下さったのです。神様は去らせる、いやもうあなたから離れるのではなく、迎え入れてくださる、もう私たちが罪の奴隷、世の勢力に、サタンに引き戻されることがないよう、御子イエス様に私たちを繋げさせてくださったのです。

 

この時より少し時代は戻りますが、ある時預言者ホセアに、「神様は」姦淫の女性・ゴメルをめとるようにおっしゃります。そしてホセアは彼女と結婚します。神様が。すごい話ですよね。しかし彼女はホセアとの生活に飽きて、不倫に走りますが、彼女を世の中の人はまたもてあそび、彼女は傷つき倒れるのでした。しかし、神様はなんと、ホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ」と、彼女が弁償するのではなく、ホセアに彼女をもう一度買い取らせたのです。

 

これが神様の愛なのです。本来私たちが償いをしなければいけない、その代価を神様が払われたのです。このホセアの話は、神様がホセアに命じたことです。神様の愛をホセアを通して訴えたのです。罪人、神様から離れて好き勝手に生きるその女性を、神様のもとに招かれた。それでもさらに離れ去った彼女をもう一度神様は受け入れようと、今度は代金をホセアという人に支払わせてまで彼女を取り戻したのです。神様の愛の内に入れられたのです。

 

ゴメルにしても、↑で語られている南ユダにしても、私たちにしても、それこそ↑で「目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった…」と言われるように、神様から離れ世にもてあそばれ、疲れ果てる、もう枯れ果ててしまった状態のはずでした。しかし、降らない雨を神様は降らせてくださった、とらわれた私たちを買い戻してくださったのです。

 

目をあげよ、と。神様は御子イエス様が私たちのところに遣わされました。そこにあるのは裸の丘、私たちはもうむき出しでどうにもならなくなってしまった、神様との関係から離れ、そのいのちを失ってしまった私たちの姿。しかし、神様はもう一度命の息吹をあなたに吹き入れるため、永遠の神様との切り離せない婚姻関係に、神様の家族として、子として迎え入れるため、私たちの罪を御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、身代わりに罰し死なせることでその代価を支払われたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。

 

この御子イエス様のいのち、十字架にあって本来迎え入れられることなどありえないはずの私たちを神様は迎え入れてくださりました。「それゆえ、人はその父と母を離れ、その妻に結びついて、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と仰られた神様は、イエス様にあって私たちを結び付けてくださりました。イエス様と繋がれた、この強固な愛によって私たちは今生かされているのです。もう私たちは神様から離れてはいけない。神様があなたに注がれているこの愛、恵みの雨を今日受け取り、日々この神様に生かされ、歩もう。「引き離してはいけない」と仰られ、それをイエス様によって戻された、それほどの愛が今日もあなたに注がれ、あなたを守り導かれるから。